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2022年10月12日00:17

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10月12日の日記

今日の出来事:1584年−末森城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:第二次上田合戦、1868年−明治天皇の即位の礼、1960年−浅沼稲次郎暗殺事件

今日は、末森城の戦いです。1584年、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が「小牧・長久手の戦い」で対峙しました。それに呼応し、織田・徳川連合軍に味方した越中国の佐々成政は、羽柴方の前田利家の朝日山城を急襲しました。前田氏家臣・村井長頼がこれを撃退しました。10月12日、佐々成政は前田利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるため、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢15000人で末森城を包囲しました。そして、前田利家の増援軍を警戒し、神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたらせました。戦闘が始まると城将・奥村永福、千秋範昌ら1500人が決死の籠城戦を展開しました。戦況は佐々成政軍が有利で、前田方の城代・土肥次茂が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれました。金沢城で急報を聞いた前田利家は、兵2500人を率いて出陣しました。高松村の農民・桜井三郎左衛門の案内により、佐々成政軍の手薄な海岸路に沿いながら北川尻を越えて今浜まで進軍しました。明け方には末森城に殺到する佐々成政軍の背後から攻撃し、これを打ち破りました。両軍ともに750人余りの死者が出ました。佐々成政は越中国に向けて退却しましたが、途中で無人の鳥越城を占領しました。以降、佐々成政は守備を固めて守勢に転じました。前田利家は領国の防衛に成功し、「小牧・長久手の戦い」で政治的勝利を収めた羽柴秀吉と協力して攻勢を開始します「佐々成政征伐」。

次に、関ヶ原の戦い:第二次上田合戦です。真田昌幸は徳川家康に従っていましたが、下野で次男・真田信繁とともに離反して上田に帰還して西軍に与しました。これに対し、長男・信幸は東軍に従いました。どちらが勝利しても真田一族が残れるように分かれたのでした。徳川家康が率いる東軍は、小山で石田三成ら西軍の挙兵を知り、軍を西に返しました。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進みましたが、徳川秀忠が率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かいました。そして、その進路に真田父子が立て籠もる上田城がありました。小諸に到着した徳川秀忠は、昌幸の嫡男・信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、真田昌幸に対して開城を求めました。真田昌幸は返事を先延ばしにして、時間稼ぎをしました。数日後、真田昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは籠城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものでした。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、徳川秀忠は「謀ったな安房守!」と怒鳴り、上田城攻略を決意しました。この時、本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは、上田城を黙殺して西軍との主戦場に急ぐべきだと進言しましたが、兵力差が圧倒的だった事と、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かった事、さらに以前の「第一次上田合戦」で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かった事もあり、徳川秀忠の決断を覆す事は出来ませんでした。徳川秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄・信幸の軍勢を差し向けました。軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事をせず、城を捨てて上田城に引き上げました。真田信幸軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げました。これは、父弟が敵に回り、東軍内での立場が危うかった真田信幸に手柄を上げさせ、徳川秀忠の信用を高めようとしたためと、真田信幸軍を戸石城に釘付けにする事により、信幸を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためでした。戸石城を落とした後、秀忠軍は上田城の攻略に取り掛かりました。短期決戦を狙う徳川秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取りました。牧野康成が率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めました。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきました。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢は敗れて上田城へと逃走しました。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫りました。実はこれも真田昌幸の作戦でした。徳川軍が上田城の大手門へと迫った時、突如として門が開いて、待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせました。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥りました。功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていました。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとすると、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり、進退窮まったところへ城内から真田勢が討て出て、徳川軍を散々に打ち破りました。さらに真田昌幸は徳川勢に追い打ちをかけました。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた真田信繁隊200が徳川秀忠の本陣に奇襲をかけました。真田信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込みました。徳川秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れました。また真田昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めていました。真田信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、「第二次上田合戦」はわずか1日で真田方の大勝に終わりました。徳川秀忠は上田城が予想外に頑強である事に驚き、先を急ぐ事にしました。しかし、この上田での遅延と道中の悪天候が災いして、遂に「関ヶ原本戦」に遅参するという大失態を演じてしまいます。この失態に徳川家康は激怒し、秀忠にしばらく対面する事を許しませんでした。「関ヶ原合戦」が西軍の敗北に終わり、西軍に与した真田昌幸と信繁は死罪を命じられましたが、真田信幸とその岳父・本多忠勝の助命嘆願などがあって、一命を助けられて高野山、後に信繁が妻を同行させる事を願ったため、九度山に流罪となりました。この真田信繁は、後に「大坂の陣」で豊臣軍の中心として大活躍する「真田幸村」です。真田信幸は名を「信之」に改め、真田昌幸の旧領を引き継ぎます。
徳川氏の敗北に終わりましたが、この戦いで活躍した7人の徳川家臣を「上田七本槍」と呼んでいます。以下が上田七本槍です。中山照守、小野忠明(御子神典膳)、辻久吉、鎮目惟明、戸田光正、斎藤信吉、朝倉宣正 なお、槍脇として弓矢で敵を射倒していった大田甚四郎吉正も並び賞されています。

その次に、明治天皇の即位の礼です。1867年1月30日に孝明天皇の崩御を受け、睦仁親王が1867年2月13日に践祚して皇位を継承しました。当初は11月に即位の礼を行う予定でしたが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られました。明治新政府は、翌年の1868年5月に新時代の到来を宣布する為、変化に相応しい新しい即位式の挙行を目指し、津和野藩主で神祇官副知事の亀井茲監を「御即位新式取調御用掛」に任命しました。岩倉具視は亀井茲監に唐風儀式の撤廃と古式復興を命じました。新時代の象徴として式典で地球儀を用い、皇威を世界に知らしめる事を目的としました。孝明天皇即位に使われた高御座は内裏とともに焼失していたので、例年の節会などに使う帳台をもって高御座と称しました。唐風とみなされた装束や装飾は全廃されたため礼服は廃止され、平安時代以来、礼服に次ぐ正装であった束帶が使用されました。庭に建てる儀仗用の旗の類も廃止され、幣旗という榊がたてられました。1868年10月2日に、10日後の10月12日に即位の礼を行う事を発表し、6日から関連儀式を執り行いました。殊に崇徳天皇に勅使を遣わし、命日である11日に霊前で宣命を読み上げました。翌日12日、即位の礼当日は宣明使が宣明を読み上げ、参列者中筆頭位の者が寿詞を読み、古歌を歌いました。そして「拝」と一同唱和し、式典が終了しました。この翌日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、江戸は「東京」に、江戸城は「東京城」に改められました(東京奠都)。

最後に、浅沼稲次郎暗殺事件です。東京都千代田区にある日比谷公会堂で、演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺されたテロ事件です。この日、日比谷公会堂では近く解散・総選挙が行われる情勢で、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていました。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演説する事になっていました。浅沼稲次郎は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めました。浅沼稲次郎が演説を始めた後、右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者が出たので、司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まりました。それを見計らって浅沼稲次郎は自民党の選挙政策についての批判演説を続けました。浅沼稲次郎が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼の胸を2度突き刺しました。浅沼稲次郎はよろめきながら数歩歩いた後に倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられて、ただちに病院に直行しました。秘書官が浅沼の体を見回し、出血がなかった事から安心しましたが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけでした。実際には一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断されており、内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していました。側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したといいます。山口二矢はその場で現行犯逮捕されました。山口二矢は11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後、自殺しました。また、この事件で警視庁は山口二矢のほかに、「全アジア反共青年連盟」責任者・吉松法俊を恐喝、右翼団体「防共挺身隊」隊長・福田進を公正証書原本不実記載および強要、また大日本愛国党総裁・赤尾敏を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕しました。公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員会委員長が引責辞任しました。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められる事になりました。

今日の誕生日:朝倉義景、近衛文麿(第34、38、39代内閣総理大臣)、中岡艮一、三浦雄一郎、佐々木信也、中山律子、島田荘司、鹿賀丈史、東儀秀樹、真田広之、香田晋、土屋伸之(ナイツ)、ともさかりえ、小畑由香里、前田由紀(元Whiteberry)、須田アンナ(元Happiness、元E-girls)、にしこくん

今日の記念日:鯛の日、豆乳の日、芭蕉忌/時雨忌/桃青忌/翁忌、ネット銀行の日、PRの日

今日の「今日訓」:本日は、「とう(10)にゅう(2)」の語呂合わせで「豆乳の日」となりました。また、元禄7年10月12日が松尾芭蕉の命日である事から「芭蕉忌/時雨忌/桃青忌/翁忌」、2000年10月12日に日本初のインターネット専業銀行「ジャパンネット銀行」が営業を開始した事から「ネット銀行の日」、PRのPには数字の「10」がRには数字の「12」が隠れていると見て取れる事から「PRの日」、「体育の日=タイイクの日=鯛喰う日=鯛の日」で「鯛の日」となりました。
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