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2022年04月08日08:40

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【再録】「動物はあなたのご飯じゃない」理由

「黒人の平等だって! ごまかしだ! 宇宙を創り、それを支配する偉大な神の統治下で、いつまでこんな低級なデマゴキーを、ならず者どもはわめき続け、馬鹿者どもはほざき続けるのか」
「白人と黒人の間には肉体的な相違があり、そのため社会的、政治的平等の名の下に一緒に生活することは永久にできないであろう。私も白人に優位な立場が与えられることを支持する」


これ、誰の言葉だと思います?
これがリンカーンだって言ったら、びっくりしますか?
もちろんぼくはリンカーンをレイシストと糾弾したいんじゃない。
奴隷制廃止の指導者であった彼でさえ、「時代の子」だったということなんです。
それは「アンクルトムの小屋」のストー夫人も同様なわけで、主人公のトムなんて、マルコムXの言う「家付き黒人」そのものなわけでしょう。けど、彼女のパターナリズムを現在の基準で批判はできない。
彼女もまた「時代の子」であったからです。

閑話休題。
捕鯨を巡っての論争って、海外にしてみれば環境問題だけど、日本にとってはナショナリズムなんですよね。
この議論がいつまでたっても平行線な理由は、ここにあるんじゃないかな、とも。

動物愛護は世界的な動きでしょうね。
「伝統」ってのは、便利な言葉だけど、スペインでは闘牛は事実上終焉に向かっているというし、フォアグラもフランス以外の国では消えつつあるという。
悪い伝統は廃止してしまえというのも正論となりうる。

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このキャッチフレーズは衝撃的と言うより、喜劇的に見えた。さもなくばジョークか。
で、ご存知こんなパロデイも出来たわけだけど。
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しかし、当のNPO法人「アニマルライツセンター」の人々は、このパロディには冷笑的です。
「このパロディを作った人こそ、何も分かっていない。勉強しなおして、出直して来なさい。」
ぼくも当初は、パロディを作った人に共感してました。
しかし、まじめに勉強してみたところ、アニマルライツセンターの言っていることのほうが正しいことが分かってしまった!!

彼らは、ある活動家の思想の影響を受けています。
それが『動物の権利』の著者ピーター・シンガーさんです。

動物の権利?
ぶっちゃけ、彼らの言う「動物の権利」と言うのは、ぼく達が考えている「基本的人権」とは全く別物だったんですね

ぼくらが「人権」と考えるのは、ルソーやモンテスキューやロックの啓蒙思想、「自然権」の系列です。
それに対し、ピーター・シンガーの考える「動物の権利」とはベンサムの功利主義の伝統に属します。ぶっちゃけ全くの別物なのです。

ベンサムは自然権の考え方を、きっぱりと否定していました。
こんなのは、人間が勝手に作った法螺の類だろ、と。
ピーター・シンガーもその辺りのことを分かっていたから、「人権」って言葉は、使ってないんですね。
自然権否定? 
しかし勿論、ベンサムさんは歴史に名を残す哲学者です。人権を馬鹿にする巷のネトウヨの類とは一緒にできない。

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ベンサムは18〜19世紀の人なんだけど、奴隷制に反対していました。
しかしながら、当時の自然権の考え方では、奴隷制を否定できなかったんです。
アメリカ独立宣言を起草した人々は、啓蒙思想を熱烈に支持していた人達だった。
にも関わらず、彼らは黒人や先住民族(インディアン)の人権には、全く無頓着だった。
平気で奴隷を所有し、先住民から土地を奪っていた。
何でやねん?
ぶっちゃけ、彼らは黒人や先住民族を自分らと同じ人間だと思ってなかったんです。

コロンブスが新大陸に到達すると、カソリックの対抗宗教改革の使命感に燃える宣教師が、布教のために南米に訪れる。
その一人、ラス・カサスは現実を見て、真っ青になるわけですね。
こりゃ、布教どころじゃないって。
スペイン人たちは、何万人もの先住民を奴隷にして、大量殺戮している、と。
それで「インディアス破壊についての簡潔な報告」と言う有名な小冊子を出すわけだけど、当時のアリストテレスに通暁したスコラ哲学者たちは、これを嘲笑しました。
なぜかというと、
「動物を家畜にして屠殺したところで、何が悪い? あいつらを見ろ。無知蒙昧で野蛮で暴力的で凶暴な連中だ。いくら教育しても、さっぱり利口にならない。要するに奴らは動物なんだよ。だから、奴らを家畜として扱ったところで、何も問題はない」
彼らは決して馬鹿ではなかった。クジラが魚ではなく獣だと言うことを知っていたし、ナマコがヒトデやウニの近縁種であることに気付いていた。
単に生物学の水準が、人類の研究については、遅れを取っていただけなんです。

時代が下ると、ちょっとは状況が良くなります。
けど、マシになったってだけのことなんですね。
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当時は現在ほど、生物学も人類学も進歩してませんでしたから、立派な生物学者ですら、黒人や先住民族を、白人よりも劣った人種だと考えていた。
ダーウィンの進化論が広く受け入れられても、事態はたいして変わらなかった。
黒人は、人間より猿に近い動物なんだ、と。
これは20世紀初頭になっても、高い教育を受けた人ですら、多くの人が信じていましたから。

そんな時代背景でしたから、啓蒙思想と奴隷制と言うのは、両立しえたわけなんです。現在じゃ考えられないことですけどね。
なぜなら、自然権の起源というのは、社会契約にあります。
でも動物は、人間とは社会を共有していません。だから動物と人間の間に、社会契約なんて発生しない。
また社会を共有にするにせよ、生物学的に動物に近い劣った相手とは、対等な社会契約というのはありえなかったんですね。
だから啓蒙思想の支持者、人権主義者ですら奴隷制は問題ないと考えた。

けど、ベンサムはそうは考えなかった。
社会秩序や道徳の根拠は、人権のような輪郭のはっきりしない幽霊みたいなものではなく、明確な数学的なものにあると考えた。
そう、功利主義、「最大多数の最大幸福」です。

ベンサムは言う。
「善」とは何ぞや?
ぶっちゃけ、それは「幸福」を出来るだけ多くの人に享受させ、かつ大きくすることだと。
例えば、一人の貴族が豊かになるために、百人の農奴が貧しくなるのは、間違っています。
功利主義で説明するとこう。

1(貴族1人)×100(幸福)+100(農奴百人)×1(幸福)=200
むしろ、
1(貴族1人)×10(幸福)+100(農奴百人)×10(幸福)=1010
後者のほうが、幸福の総合的な値が大きいですよね?
だから、封建制なんか廃止したほうが良い。
これがベンサムの最大多数の最大幸福ってやつなんです。
ベンサムはこの理論で奴隷制廃止を訴えた。

じゃあ、百人の白人の幸福のためなら、十人の黒人が奴隷になっても良いのか?
もちろんベンサムは、そうは考えなかった。
「多数決の暴力」なんてのは、既に紀元前にソクラテス先生の死を目の当たりにしたプラトンが言ってるわけで、それぐらいのことはベンサムも知っていた。

つまり奴隷制がもたらす苦痛はあまりに大きい。
下手すると命に係わる。
奴隷制によって百人の白人が10の利益を得たとしても、10人の黒人が200の不幸を背負っては意味が無い。

100(白人)×10(利益)+10(黒人)×−200(不幸)=−1000
てな具合に、社会全体がマイナスになってしまう。
だから奴隷制は廃止すべきだと考えた。

ベンサムは、これを動物虐待問題にも応用した。
自然権の考え方では、動物虐待が悪い事だとは説明できないんです。
動物には、基本的人権なんてありませんからね。
しかし功利主義なら、これで綺麗に説明できてしまう。
動物だって、苦痛や恐怖はありますから。

だから、功利主義を標ぼうするシンガーさんに、「植物はごはんじゃない」とか「ぼくらはみんな誰かのごはん」なんてパロディを突き付けても、それを論破したことにはならないんです。
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だって、植物は苦痛を感じないんですから
仮に植物にとっての死を苦痛と定義してみても、痛覚や恐怖を持つ動物の苦痛とは同値ではないわけです。
逆に「もっと勉強して、出直して来い」と言われるのがオチなんです。

こうした功利主義とは別の切り口から、動物愛護を唱えている人が、「動物の解放」論者のトム・レーガンさんです。
彼はカント主義者なんですけど、カントは「人格を持つ者を尊重しなければならない」と言っている。
カントは「人格」の定義として、「道徳を理解できるもの」としている。
しかしこの定義は不十分であることは古くから指摘されてきた。
幼児や一部の障がい者は道徳を理解できません。
だったら、間引きやナチスのT4計画(障がい者安楽死計画)はゆるされるのか? って話しになるからです。
そこでレーガンさんは言う。
「生命ある者は尊重しなければならない」
つまり、「人格を持つもの」を「生命あるもの」に拡張したわけなんですね。
命と言うのは重たいものなわけで、それは人間や動物の隔ては無いというわけです。

これらの主張には、一理あると思う。
でも一理はあるけど、どちらも違うと思う。
まず功利主義なんだけど、例えば何千万という人の利益のために飛行場を建設する。そのために数十人の農家から土地の強制収用するのは仕方ない。
1億2千万の国民の安全のためなら、沖縄の基地周辺の一部の人に我慢してもらうのも仕方ない。
これらは功利主義です。実に合理的で論理的です。
でも何かがおかしい。
有名な「暴走トロッコの例え」が示している通り、大抵の人は「人間の権利は算数じゃないんだ」と現に感じる。

そう、功利主義は最大多数の最大幸福のために、一部に犠牲を強いてしまう。
犠牲にされる人間の人権侵害はどうなるんだ? って話しです。
これは捕鯨やフォアグラや闘牛にも言えることなんですね。
漁師やフォアグラ農家や闘牛士だって、職と名誉を失えば、悲劇です。

ベンサムさんは私立学校を創設しているんですが、これには面白いエピソードがある。
そこの学生たちが「だったら、ベンサム先生に模範を示して貰おうじゃねえか」と、彼の遺体を「誘拐」して人質にし、学校側に多額の慈善団体への寄付を要求したんです。
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学校側は、この誘拐事件で、身代金を支払わらざるを得ませんでした。
サンデルさんが「白熱講義」で指摘している通り、功利主義には穴が多すぎるのです。
それで現在の憲法学者たちは、ベンサムの自然権否定論を、まったく問題にしていません。
ただ、そうなるに至ったのも、生物学の進歩によって人種間に差異が無いことが証明されたってのも大きい。
やはり、理系と文系のバランスの取れた教育って大事だと思うんです。片方に偏るのは偏見を産む基だってのは本当だと思う。これは難しい事だとは思うけど。

レーガンさんのカント主義の流用にしてみても、呉智英さんあたりから「じゃあ、酵母の解放のために、世界中でパン焼くのを反対してみろや」とせせら笑われてしまう。

それで過激な動物愛護論者は、(本来、哲学的に対立しているはずの)シンガーさんの功利主義とレーガンさんの拡張カント主義をチャンポンにして主張するわけだけど、事態はあんま変わらない。

ただ、シンガーさんやレーガンさんの矛盾を指摘するのは簡単です。
でも、「じゃあ何が正しいのか? 」となると、これが大変な難題なわけですね。

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動物の虐待は自由にやって良いのでしょうか?
実際、人類はしばしば動物の虐待を娯楽にしてきた。
例えば、ヨーロッパではお祭りの時に「クマいじめ」や「猫いじめ」の見世物は定番だった。
猫の手足を縛って、生きたまま火に放り込んで、猫が大騒ぎしながら死ぬのを笑いながら見るってやつです。

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ニャンコ好きにしてみれば、なんて野蛮な! って思うかもしれないけど、こうした嗜虐欲、死を喜ぶ感情というのは、誰にでもある「本能」でしょう。
古代ローマでは死刑を闘技場のショーにしていたし、中世では市民の娯楽のために死刑囚が居ない時はわざわざ隣町から犯罪者を買ってきて広場で吊るしたそうです。アジアも似たようなもんで、魯迅の小説にはホラー映画を見る感覚で死刑を見物する中国民衆が描かれているし、江戸の町人も歌舞伎の前座的に打ち首を見物していた。
現在でも状況は、あんま変わっていません。
何か事件があるたび、マスコミの断片的な情報だけで事件のことを良く知らないのに、被害者や遺族でもないのに、やたら死刑が大好きな人達でネットが溢れかえる。
死刑を喜ぶ心情は、「正義」という大義名分でコーティングされているので、その根底に「嗜虐」があることは、確かに分かりずらい。
しかし空腹のあまり魚をくわえて逃げたニャンコを生きたまま火に炙って喜ぶ事と、本質的にはたいして変わらないように僕は思います。

でも進化心理学では、こうした「嗜虐」の感情は、人間の遺伝子が自然選択による進化の末に身につけたダークな生き残り戦略だという。
すなわち、「復讐」や「支配」の本能は誰だって持っているわけですが、これを犯罪者に対して投影してしまう。
また、「死」や「他人の苦痛」に対して好奇心を抱く個体は、結果的に「死や苦痛について知識」が得られるので、それを回避できるようになる。
これらが複合的に加わった「本能」だという。
だからぼくは、スプラッタ映画や漫画の残酷シーンも、こうした本能ゆえの必然的な帰結なので、寛容に見るべきだと思ってる。

でも、これを架空のものではなく、実行に移すのは問題です。
「復讐」の遺伝子ひとつ例にとっても、ジョン・メイナード・スミスが「囚人のジレンマ」を用いたゲーム理論で証明した通り、無抵抗より復讐する方が生き残りやすい反面、復讐をやりすぎた遺伝子は自滅してしまうのです。
利己的遺伝子仮説のドーキンスが言っている通り、人類は遺伝子の命令に理性の力で逆らえる稀有な動物であり、それが「人間の尊厳」なわけですから。

でも大きな希望もあります。
人間の本能には「嗜虐」と言う悪魔の本能がある反面、「共感」と言う天使の本能もありますから。
認知心理学者のスティーブン・ピンカーさんは、人類は数千年かけてこの「共感」を拡張させてきたという
端的に言うなら、敗戦国の民は女子供はおろか家畜にいたるまで皆殺しにして、街に火を放ち、廃墟に塩をまいていた時代の人間が、「世界人権宣言」や「国際人権規約」を世界のほとんどの国が批准していると聞いたら、腰を抜かして驚くだろうということです。
いや、そもそも理解すらできないかもしれない。

「共感」ってのは、とても大事です。「相手の身になって考える」、「明日は我が身」。
これが欠落した精神病質がありますよね。いわゆるサイコパスですね。それを考えれば「共感」の重要性が分かるかもしれない。

認知心理学者のピンカーさんが指摘するには、我々ホモ・サピエンスはこの「共感」を数千年かけて発展させてきた。

個人→家族→集落→部族→民族→国家→全人類

こんなふうに。
おそらく原始時代の人間は、自分らの集落以外の人間への共感度は低かったでしょう。
文化人類学者達が報告している通り、文明を持たない人々は、他の集落の人間への「共感」が極めて少なく、「成人式」や「彼女にプロポーズする時に男らしさを示す」ために、首狩りをする。そしてそれに罪悪感を全く感じない。
古代になると、それが集落だけではなく、もっと巨大な単位である同じ国の人間に「共感」できるように進歩した。しかし外国人にはさほど「共感」はもてなかった。「ローマ人は殺戮を統治と呼び、廃墟を作った時そこを平和と名付ける」(カルガクス)
それが中世になると自国だけではなく、同じキリスト教徒に対しては外国人であっても「共感」できるようになった。でもユダヤ人等や異教徒には「共感」できなかった。
しかし現在は違いますよね。
(要するにザイトク会の「共感」能力は半世紀前、下手すると一世紀前の感覚なんですな)
ピンカーさんは、人類はこれからも「共感」をさらに拡張させるだろう。近年の目覚ましい動物愛護は、こうした「共感」が拡張されているポジティブな流れだという。

これって、歓迎すべきことなのでしょうか?
ぼくは歓迎すべきことだと思う。
全人類的規模で、「共感」が広がるということは、様々な形で世界平和に貢献し、人権侵害を減らすことに直接的であれ間接的あれ、つながることになると思うからです。

ただ、この「共感」はバランスが伴わないと、かえって事態を悪くしますね。
これは、被害者やその遺族に共感したまでは良いけど、過ちを犯した人間への共感を忘れた死刑大好きな人やネット私刑をする人達にも言えることなんですが。
人間誰だって、加害者になる可能性はあるわけで。
これは動物虐待についても言えることです。
動物行動学者のローレンツが嫌悪した「人間に向けるべき愛情を動物に向ける倒錯」ってやつです。
クジラに共感するあまり、ガチョウに共感するあまり、牛に共感するあまり、漁師やフォアグラ農家や闘牛士への共感を忘れてしまった人たちが確かに居ます。
実際、東日本大震災を「海の神の怒り」とポエムを書いて、被災者たちの神経を逆なでした、どこぞの無神経な動物愛護過激派のように。
どんな美徳でも、バランスを崩せば本末転倒になります。

こうした「共感」の変化は、日本でも劇的な例があります。
江戸幕府において、綱吉ほど後世の歴史家から嫌われた将軍はいないわけですが、ドイツ人の日本史学者のベアトリス・M・ベイリーさんは、(ドイツ人らしく)当時の歴史記録を丹念に探っている。
そして、言われている程かれは暗君ではなかったというのです。

武士たちは、長らく農町人の命をゴミのように考えていた。
それを端的に表すのが、「葉隠」です。これを未だにカッコいいと思っている人が居るようですが、この本を最後まで通読した人は、あまり居ないんじゃないですか?
有名な前半部分はともかくも、とにかく酷い。
人の命を何とも思っておらず、むしろ「武士は殺人を躊躇ってはならない」わけで、武士のエゴや些細なことで町人や子供を殺すことを是としている。
挙句の果ては、女の子は一人いれば充分だから、次女が生まれたら赤子のうちに殺すことが望ましいなんてほざいてる。
それが江戸中期以降から、農町人の命も尊いという愛民が武士の思想の主流となります。
子供の命だって尊いということから、産婆さんに大名行列を横切る特権(!)が認められたりもする。
そのパラダイムシフトが起こったのが、綱吉の治世だというのです。

悪名高い「生類憐みの令」ですが、この生類には人間も含まれていたことを日本の歴史家たちは見落としている。
些細なことで農町人を切り捨てることの禁止、間引きの禁止、捨て子の禁止とそれを徹底するために幼児の登録の義務化、行き倒れの旅人の介抱の義務化。
また犬を殺しても、故意でなければ無罪とされたし、農作物を荒らす害獣の駆除や猟師の仕事も、ちゃんと例外とされていたんですね。
ベリーさんは、明確に武士たちの「共感」が、自分達の階級以外にも広げさせたのが、綱吉だったと指摘している。

ただ急進的、極端になり、「やりすぎて」しまったのも事実。
動物に「共感」しすぎて、人間への「共感」が疎かになると言う本末転倒が一部で生じた。
歴史って繰り返すもんなんですねえ。

じゃあ、これからぼく達は動物とどう付き合うべきなのか?
先にも行った通り、シンガーの功利主義も、レーガンの拡張カント主義も、一理はあるけど、どちらも違うと思う。

つまるところ、これまで通り「社会契約」に基づくしかないと思う。
もちろん人間と動物は対等足り得ません。
動物には理性もないし、道徳もない。
しかし人間と社会の一部を共有しています。ごく一部ではありますがね。
例えば、ペットは、疑似的な友人、疑似的な家族となっている。
これは食肉用の家畜とは、人間との社会の共有の仕方が大きく違う。
だから、ペットとの(疑似)社会契約、家畜との(疑似)社会契約、野生動物との(疑似)社会契約、これらはおのずと違ったものとなります。
ゆえに、それにしたがって扱いを別にしてゆくしかないでしょう。
そう考えれば、動物虐待禁止法と家畜の屠殺は、矛盾したものではなくなる。
そして動物との(疑似)社会契約の内容について、議論してルールを決めるしかないんじゃないかってのが、ぼくの考えです。
例えば毛皮を取る前に安楽死させることを義務付けるとか、フォアグラの生産量を制限するとか。

まあ、どっちにしても、理性も道徳もなければ社会も持たない動物にしてみれば、愛護されることも虐待されることも、どちらもホモ・サピエンスのエゴなんでしょうけどね。

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