mixiユーザー(id:48382454)

2021年12月18日00:19

31 view

12月18日の日記

今日の出来事:807年−伊予親王の変、1457年−長禄の変、1864年−天狗党の乱:和田峠の戦い、1868年−箱館戊辰戦争:松前城攻撃、1876年−伊勢暴動

今日は、伊予親王の変です。伊予親王は、桓武天皇の第三皇子です。父の生前は、深い寵愛を受けていました。一方、外伯父(母・藤原吉子の兄)の藤原雄友は、大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にありました。平城朝では、中務卿兼大宰帥を務めて皇族の重鎮となっていました。兄・平城天皇とも良好な関係を保ち、807年に神泉苑に行幸した際に献物を行って終日宴会にも参加しました。しかし、藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告しました。一方で、伊予親王も藤原宗成に唆された経緯を平城天皇に報告しました。そこで朝廷が藤原宗成を尋問した所、伊予親王こそが謀反の首謀者だと自白しました。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子と伊予親王母子を捕縛して川原寺に幽閉しました。2人は身の潔白を主張しましたが聞き入れられず、12月18日にそろって毒を飲んで心中しました。後に2人の無罪が認められ、墓は山陵とされました。この事件で、藤原宗成は流刑となり、伊予親王の外戚・藤原雄友も連座して伊予国へ流罪に処されました。また、この事件を受けて中納言・藤原乙叡が解任されました。この事件により、大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退しました。なお、藤原宗成は藤原仲成・薬子兄妹に唆されたと言われています。この事件以降、平城天皇と藤原仲成・薬子との結び付きは強固となりました。

次に、長禄の変です。長禄の変は、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を騙し討って、神璽を持ち去った事件です。「禁闕の変」で、三種の神器の1つ「神璽」が後南朝に持ち去られました。「嘉吉の乱」で赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺し、取り潰された守護大名・赤松氏の再興を願う赤松氏の遺臣達(石見太郎、丹生屋帯刀、上月満吉など)は大和の豪族・小川弘光と共に、奥吉野の北山・川上に本拠を置いていた後南朝の行宮を長禄元年(1457年12月27日)に襲撃しました。南朝の皇胤である自天王と忠義王の兄弟や野長瀬盛高・盛実兄弟、楠木正理らは奥吉野の山中を逃走しましたが、十津川にて討たれました。赤松遺臣らは神璽を持ち去る事には成功しましたが、後南朝を支持する吉野の民によって神璽を再度奪還され、一旦引き上げました。翌年の長禄2年(1458年)、赤松遺臣らは小川弘光・越智家栄の協力を得て自天王の母の屋敷を襲い、再度神璽を持ち去りました。約15年もの間、京都から持ち去られていた神璽の奪還成功の功績を認めた室町幕府は、赤松氏の再興を許しました。そして、赤松政則に家督相続をさせました。こうして赤松滅亡から17年、赤松政則は加賀北半国の守護大名となり、赤松家が再興されました。この変で処罰された者は以下です。皇族:伊予親王(自殺)、継枝王(流罪)、高枝王(流罪)、伊予親王の娘(流罪)、中臣王(獄死)、藤原南家:藤原吉子(自殺)、藤原雄友(流罪)、藤原友人(左遷)、藤原乙叡(解任)、藤原北家:藤原宗成(流罪)、橘氏:橘安麻呂(解任)、橘永継(解任)、橘百枝(左遷)、秋篠氏:秋篠安人(左遷)

その次に、天狗党の乱:和田峠の戦いです。京都を目指す武田耕雲斎を首領とする「天狗党」は、追撃して来た高崎藩兵を下仁田で撃破「下仁田戦争」しました。「天狗党」は中山道をさらに進軍して、和田宿を出て下諏訪へ向かう途中に和田峠がありました。信州諏訪湖近くの和田峠では1000余名の高島藩・松本藩兵が「天狗党」を迎え撃つため、峠から諏訪方面に下った西餅屋茶屋近くの要害の地に陣を構築していました。12月18日午後、峠上で戦闘が始まり両軍は激しく戦いましたが、夕刻になっても勝敗がつきませんでした。「天狗党」の軍師・山国兵部は兵の一部を敵の背後に迂回させる作戦を立てました。そして、夕闇にまぎれて腹背から攻撃を行ったため、松本藩、高嶋藩の連合軍は全軍総崩れとなりました。こうして、「天狗党」が勝利し、京都を目指してさらに進軍を続けます。

その次の次に、箱館戊辰戦争:松前城攻撃です。「知内の戦い」、「福島の戦い」で松前藩兵を撃破した土方歳三が率いる旧幕府軍は、松前城攻略を開始しました。一隊が囮となってる隙に、別の一隊が高台を占拠しました。そこから大砲による砲撃を行ったため、松前藩兵は城に籠城しました。松前藩は藩主・松前徳広が病身のため、家老・蠣崎民部が総大将となり、松前右京ら400の兵で城を防御しました。城の一角にある馬坂門では、松前藩兵が大砲を撃つ瞬間に門を開けて、撃った後すぐにまた門を閉めるという戦法で、旧幕府軍を悩ませました。土方歳三ら幹部が対策を協議した結果、決死隊を編成して門の両端に潜ませ、松前藩兵が門を開いた瞬間に斬り込む作戦を行ないました。その結果、奇襲を受けた松前藩兵は混乱し、馬坂門を突破する事に成功しました。劣勢となった松前藩は城を捨てて、さらに城下町に火をつけて江差へと撤退しました。これにより、松前の民家約1000戸以上が焼けました。旧幕府軍が城内に突入した時、「彰義隊」の隊長・渋沢成一郎が、いきなり宝物庫に押し入り金品を強奪しに向かったため、城への一番乗りを果たせませんでした。これが原因で争いが起こり、「彰義隊」は分裂します。菅沼三五郎が「彰義隊」の隊長に就任し、渋沢成一郎は部下80名と共に「小彰義隊」を組織します。こうして、旧幕府軍は松前城に入城しました。

最後に、伊勢暴動です。伊勢暴動は、三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した「地租改正反対一揆」です。受刑者は50773人に上り、最大規模の騒擾事件となりました。「明治維新」により新政府は次々と改革を進めていきましたが、その改革の中に米の代わりに現金で納めるとした「地租改正」がありました。従来の税収を維持するように「地租」が定められたため、農民の負担は軽くならず、農民の不満は高まっていきました。1876年11月27日、茨城県真壁郡吉間村(現在の筑西市)に約300人の農民が結集し、副区長に強訴する事件が発生しました。11月30日には同郡飯塚村(現在の桜川市真壁町飯塚)で民衆蜂起が起きました。これらは「真壁一揆」と呼ばれ、164名の捕縛者を出しました。県南で起きた「真壁一揆」は県北に波及、12月8日から12月10日に那珂郡小舟村や上小瀬村の村人を中心に「小瀬一揆」が勃発、死刑3名を含む1091名の処罰者を出しました。茨城県で起きた一揆は「地租改正」に反対するだけでなく、学校課賦金廃止なども掲げていました。12月18日の朝、各村の戸長は翌日に租税を取り立てるため、豊原村(現在の松阪市豊原町)で開かれる戸長会へ出かけました。その留守の隙に、魚見村(現在の松阪市魚見町)の農民は櫛田川を挟んで豊原村と向かい合う早馬瀬村(現在の松阪市早馬瀬町)の河原に集合、租税取り立ての延期を申し入れました。そして、魚見村以外の戸長会を構成する4村からも農民が集まり、同じ要求をし、更に他の村からも農民が集まってきました。組頭が農民の応対をしていましたが、集まった農民が増大すると戸長・区長・巡査も説得に当たるようになりました。そして区長が農民の意見をのみ、三重県宛ての嘆願書を書いた頃には日付が変わって12月19日の早朝になっていました。噂を聞いた農民が櫛田川上流や西岸からも集まってきて、約1000人の大集団になりましたが、説得工作に当たった巡査が農民を挑発したため、集団移動を始めました。早馬瀬村の河原に集まった農民集団は、北上して三重県の出張所があった飯高郡松阪(現在の松阪市街)へ向かいましたが、一部は南下して三重県支庁のあった度会郡山田(現在の伊勢市街)へ向かいました。約1万人の一揆隊は松阪中心街に向けて進み、午後1時に松阪へ進入、午後12時に納税の窓口であった三井銀行を焼き討ちにし、三井銀行の取締宅や垣鼻村の戸長宅を破壊しました。12月20日朝の時点で松阪の町は一揆隊の制圧下にありましたが、安濃郡津(現在の津市中心部)に向かわず、垣鼻村の海会寺野にとどまったことで県庁派遣の士族が到着し、農民側は敗北を喫しました。一揆隊は県令宛ての嘆願書を渡し、解散しました。
津・上野方面:300人の一揆集団が大内川で、上野支庁が派遣した士族と戦い敗走しました。伊勢地や梁瀬に引き返しましたが、伊勢地に逃げた部隊は追撃され、梁瀬に逃げた部隊は迎撃されて伊賀での一揆は鎮圧されました。
鈴鹿・亀山方面:津の攻略に向かわなかった一揆隊は士族との戦いで消耗し、夜に到着した名古屋鎮台の前に敗れ去りました。
四日市方面:神戸から伊勢参宮街道を北上してきた一揆集団は、四日市中心部まで進みました。建物への毀損だけでなく、明治政府と関係する公文書が多数焼却されました。特に地租改正関連と学校関連の文書がその対象となりました。その後、処分された者は三重郡・朝明郡で合計7840人に及びました。
桑名・員弁方面:大矢知を出た一揆隊が次に向かったのは桑名で、扱所・屯所・学校・権衡売捌所を焼き討ちにし、病院や融通会所などを破壊しました。桑名郡では輪中地帯で根強い反対闘争があり、四日市と並び激しい攻撃が為されました。
山田方面:伊勢神宮では、神宮教院田丸教会所から暴動の情報を得て、小宮司以上の神階を持つ山田在住の神官は外宮参集殿に集い、防御の方針を話し合いました。約2000人の一揆隊は小川町から山田に突入、八日市場町の農社に放火したのを皮切りに、山田師範学校・三重県山田支庁・小学校・三井銀行の支店・病院などの新政府と関係のある施設を襲いました。しかし、士族との戦いに敗れました。三重県の派遣した警部以下40名が神社港に上陸して神宮の警備に就き、警視庁の警部と鎮台兵が派遣されて、抑え込まれました。三重県の北端・桑名に達した一揆隊は県境を越え、愛知・岐阜に展開していきました。
愛知県:三重県の一揆隊は桑名から長島(現在の桑名市長島町)を越えて、愛知県の前ヶ須(現在の弥富市前ヶ須町)に上陸しました。愛知県の農民も巻き込んで海東郡津島(現在の津島市)方面に展開していきました。海東郡や海西郡で暴動が起きました。
岐阜県:桑名の一揆隊の一部は北上を続け、岐阜県内に入りました。4郡51村に被害をもたらし、民家56戸と学校6校が焼かれ、32戸が損害を受けました。148名が逮捕され、佐屋川の河原には大量の武器が埋没しました。
大久保利通は「地租改正」がうまく進まなかった事に焦り、茨城県で一揆が起きた時点で減租を切り出す決心を固めていました。しかし、茨城の一揆はすぐに鎮圧されたため撤回、「伊勢暴動」を受けて12月31日朝に閣議を招集し、翌1877年1月4日に地租を2.5%に引き下げました。地租の率自体はわずか0.5%下げられただけでしたが、日本中の農民に恩恵をもたらす事となりました。「地租改正」前の税額と比較すると旧・三重県域で22.9%、旧・度会県域で26.3%と大幅な減税となりました。政府に対する農民の勝利と言われる「伊勢暴動」ですが、死者35人、負傷者48人、絞首刑1人(一揆軍指揮官の大塚源吉)と終身の懲役刑3人を含む処分者50773人という大きな犠牲を払った上での勝利でした。

今日の誕生日:大内義隆、立花宗茂、岩瀬忠震、ヨシフ・スターリン、タイ・カッブ、松村達雄、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)、スティーヴン・スピルバーグ、池田理代子、布施明、福永洋一、榎本一夫(えのん・貧乏神)、植草一秀、園子温、伍代夏子、金子美奈子(米米CLUB)、ブラッド・ピット、江角マキコ、芋洗坂係長(元テンション)、藤本敏史(FUJIWARA)、武田真治、飯沼誠司、住谷正樹(レイザーラモンHG)、小雪、あだち理絵子、ファンキー加藤(元FUNKY MONKEY BABYS)、矢吹春奈、長谷川俊輔(クマムシ)、安藤美姫、絢香、小畑優奈(元SKE48)

今日の記念日:国際移民デー、国連加盟記念日

今日の「今日訓」:1956年12月18日に、日本の国際連合加盟案が全会一致で可決され、国連加盟が承認された事で「国連加盟記念日」、1990年の国連総会で「すべての移民労働者とその家族に人権保護に関する国際条約」が採択された事を記念して「国際移民デー」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する