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2021年08月03日12:31

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闇?

光が当たる場所があれば、そこには闇が生じ、当たる光が強いほど、闇は濃くなります。
言葉遊びですが、案外真理だったりします。

さて、これが闇とするならば、光が当たっている場所は?と。

光を当てる要素と、光は誰が当てるのか?と、光が当たっている自覚の有無など、色んな事を考える必要があるわけで、その結果、光が当たっていないのであれば、闇であり、光が当たっている事に気が付いていないのであれば、光が当たっている事を伝え、光が足りていない事に不服を感じているのであれば、強い光が当たる場所、方法を教えれば良い話なんですよね。
光が当たっていても、隣により強い光が当たる人が居た場合、その陰に入ってしまい光が当たっている事に気が付かない事もあるわけです。
それを教え諭し導くのも、教育だと思うのですが、言ってしまうと、今の教育は、満遍なく光が当たるようにする教育で、しかも光の当て方に工夫が無く画一化しているため、強い光を求める子には不足に感じ、十分な光が当たる場所まで来られない子は、気が付かないフリをされるわけですよね。
親が、そこまで押し上げる方法もあるわけですが、それをしない親が居る。という話なわけですよね?

で、トー横キッズとカテゴライズし、そこには闇がある事を前提に話を聞こうとしたわけですよね。

クソのような取材方法ですよね。
そもそもが先入観を持って話を聞くわけですから、彼らが言いたい事を聞くわけでも無く、自分達が聞きたい事を聞くわけでしょ?
そりゃ、嫌がられても当然なのではありませんかね?

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

という事を何か特別な事の様に捉えているわけですが、場所は色々とありますが、多くの場合、子供に限らず大人でも、こういう理由なのではありませんかね?

買い物に。

という理由付けをしていても、特定の何かを買う目的があるわけでも無く、家に居るのが嫌だからと外出しているのであれば、

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

という事になるわけですよね。
バイアスが掛かった質問をされれば、それを察すれば嫌な気分になるでしょうし、それは何回か質問されれば、相手が何を求めているのを察す事は出来てしまうわけですよね。
話が合いそうな人が居る場所に来て、適当に話をして時間を潰しているだけの話なのでは?

これが文京区の赤門の前なら、違った質問になるのでは?

メンヘラは、実際に精神を病んでいる人も居れば、自分を壊さないように敢えてそういう殻を被っている人も居るわけで、その言葉自体に重きを置く必要は無いわけですよね。
そこに居る理由は、家に居場所がないからと言うのも特別な話ではなく、極普通の理由なわけですよね。
DVの子もと言いますが、そもそも、今時の子は、場の空気を読む事に長けていると思い込む傾向にあり、自らを偽ってでも、その場に居られるように自分を作るわけですよね。

そう言う場に居る子に、結論ありきで臨んで、一体何を得ようとしたのでしょうかね。

多様化を口にしながらも、望んでいるのは、皆と一緒で、多様化を口にするのは、努力をしない自分を認めて欲しいというだけの話なんですよ。

ありのままの自分を認めて欲しい。

言葉はそういう風になるのでしょうが、では、その言葉の背景は?という話なのではありませんかね?
自ら変わる努力をせずに、相手に自分を認める努力を強いている話なんですが、どういうわけか、これを是とし、個性として認めるよう多様化を訴える大人が居るわけです。
そう言う風潮が、努力をする機会を奪い、無為な時間を子供に与え、

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

と言わせているのでは?
多様化、多様性を口にするのであれば、その中身は何でもよいはずなんですよね。
ですが、方向に優劣をつけ、一定方向から外れると省かれるわけですよね。
それなら、多様性を認めず、一定のレールの上を走る事を強要した方がマシだったのではありませんかね?
そこから外れる人は、自らの意志を持って外れ、外れた事を自覚する分、強く生きていけると思うんですよね。
それは、与えられるものでは無く、自ら掴み取るものだからこそ、意味があるわけですよ。

子供の可能性を伸ばす等と言い、ストレスを掛ける事を批判し、多様化は結果であるにも関わらず、目的にしてしまい、努力の芽を摘む愚かな大人が、ありもしない闇を作り、闇を自覚させてしまっているだけなのではありませんかね?



■DV、援助交際、自殺…歌舞伎町にたむろする「トー横キッズ」が抱える心の闇
(弁護士ドットコム - 07月31日 09:41)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=6612115

闇?

光が当たる場所があれば、そこには闇が生じ、当たる光が強いほど、闇は濃くなります。
言葉遊びですが、案外真理だったりします。

さて、これが闇とするならば、光が当たっている場所は?と。

光を当てる要素と、光は誰が当てるのか?と、光が当たっている自覚の有無など、色んな事を考える必要があるわけで、その結果、光が当たっていないのであれば、闇であり、光が当たっている事に気が付いていないのであれば、光が当たっている事を伝え、光が足りていない事に不服を感じているのであれば、強い光が当たる場所、方法を教えれば良い話なんですよね。
光が当たっていても、隣により強い光が当たる人が居た場合、その陰に入ってしまい光が当たっている事に気が付かない事もあるわけです。
それを教え諭し導くのも、教育だと思うのですが、言ってしまうと、今の教育は、満遍なく光が当たるようにする教育で、しかも光の当て方に工夫が無く画一化しているため、強い光を求める子には不足に感じ、十分な光が当たる場所まで来られない子は、気が付かないフリをされるわけですよね。
親が、そこまで押し上げる方法もあるわけですが、それをしない親が居る。という話なわけですよね?

で、トー横キッズとカテゴライズし、そこには闇がある事を前提に話を聞こうとしたわけですよね。

クソのような取材方法ですよね。
そもそもが先入観を持って話を聞くわけですから、彼らが言いたい事を聞くわけでも無く、自分達が聞きたい事を聞くわけでしょ?
そりゃ、嫌がられても当然なのではありませんかね?

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

という事を何か特別な事の様に捉えているわけですが、場所は色々とありますが、多くの場合、子供に限らず大人でも、こういう理由なのではありませんかね?

買い物に。

という理由付けをしていても、特定の何かを買う目的があるわけでも無く、家に居るのが嫌だからと外出しているのであれば、

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

という事になるわけですよね。
バイアスが掛かった質問をされれば、それを察すれば嫌な気分になるでしょうし、それは何回か質問されれば、相手が何を求めているのを察す事は出来てしまうわけですよね。
話が合いそうな人が居る場所に来て、適当に話をして時間を潰しているだけの話なのでは?

これが文京区の赤門の前なら、違った質問になるのでは?

メンヘラは、実際に精神を病んでいる人も居れば、自分を壊さないように敢えてそういう殻を被っている人も居るわけで、その言葉自体に重きを置く必要は無いわけですよね。
そこに居る理由は、家に居場所がないからと言うのも特別な話ではなく、極普通の理由なわけですよね。
DVの子もと言いますが、そもそも、今時の子は、場の空気を読む事に長けていると思い込む傾向にあり、自らを偽ってでも、その場に居られるように自分を作るわけですよね。

そう言う場に居る子に、結論ありきで臨んで、一体何を得ようとしたのでしょうかね。

多様化を口にしながらも、望んでいるのは、皆と一緒で、多様化を口にするのは、努力をしない自分を認めて欲しいというだけの話なんですよ。

ありのままの自分を認めて欲しい。

言葉はそういう風になるのでしょうが、では、その言葉の背景は?という話なのではありませんかね?
自ら変わる努力をせずに、相手に自分を認める努力を強いている話なんですが、どういうわけか、これを是とし、個性として認めるよう多様化を訴える大人が居るわけです。
そう言う風潮が、努力をする機会を奪い、無為な時間を子供に与え、

>>やることないから、ここにたむろしにくるだけ

と言わせているのでは?
多様化、多様性を口にするのであれば、その中身は何でもよいはずなんですよね。
ですが、方向に優劣をつけ、一定方向から外れると省かれるわけですよね。
それなら、多様性を認めず、一定のレールの上を走る事を強要した方がマシだったのではありませんかね?
そこから外れる人は、自らの意志を持って外れ、外れた事を自覚する分、強く生きていけると思うんですよね。
それは、与えられるものでは無く、自ら掴み取るものだからこそ、意味があるわけですよ。

子供の可能性を伸ばす等と言い、ストレスを掛ける事を批判し、多様化は結果であるにも関わらず、目的にしてしまい、努力の芽を摘む愚かな大人が、ありもしない闇を作り、闇を自覚させてしまっているだけなのではありませんかね?


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