ある人が「哲学カフェ」の話をしていました。
(阪大教授時代、哲学の鷲田清一さんが青少年の参加も念頭に始められたのが有名です。)
魅力的ですが、主催するとストレスが溜まりそうです。
時間内に高校生を帰宅させる、男子大学生が女子高生に惚れるなどで起きるストーカー事件などを解決させる、レベル差に悩む、ポリティカルコレクトネスに配慮する…
など、息も詰まるような課題があるからです。
と考えると、つくづく問題だと思うのは、高校までの無理を積み重ねてやっと成立している人間関係ですね。
レベル差でいうと、哲学カフェでは、「全てが幻」だと言ったら、「その幻を感じている私は幻ではないのか」「現実だという保証もない代わり幻だという保証もないのではないか」というまっとうな反応もあれば、「暗いのね」で終わることもあるでしょう。みんなの意見が素晴らしいというウソをつかないと、今どきの若者はついてきません。
ポリティカルコレクトネスでいうと、「創価学会員は、地獄に堕ちるか?」と聞かれれば、私はイエスと答えざるを得ません。私が高校の先生だとして、その辺をゴマ化してウソついたり、自分の保身のため、インチキ宗教に嵌まる生徒を放置することになります。事実、高校時代、ものみの塔の信者がいましたが、彼は放置されていました。
自由、平等、民主主義、ポリティカルコレクトネス、教育…などに元々無理があります。若者は、人間関係のルールやその運用に無理がある環境に育っています。
だから、人間関係に不安を感じるのは当然です。
無理な規制から、全く自由な近世の制度に「講」があります。
英語でassociationというと、ニュアンスがわかると思います。
いろいろな側面がありますが、
無尽講…金を積み立てて必要になった人に融資したり、籤に当たった人にやったり…という銀行のような活動をした。近代になって法的な規制がかかり、大規模なものは、第二地銀の母体になったり吸収されたりした。競りの主催者にもなった。
信心講…信仰の講。深いものも浅いものもある。教義研究の他に、信仰を口実に、旅行をする(冨士講など)講も多かった。『東海道中膝栗毛』に描かれているお伊勢参りがそのパターン。
遊山講…旅行をする講。上と融合したものが多い。
驚くのは、関西の某寺の参道には売春宿が複数あるという話です。信心講(というより実態は遊山講)に参加した人の中で、そっち方面を希望する人が行くということですが、借金の質に売らて来た少女が…というパターンではなく、電話すると三十くらいの人が来るそうです。
希望する人もそうでない人や夫婦で参加する人、女性が同じ講の中に共存する。この辺りが講の本質でしょう。
そういう緩さをもって、
健全に精神世界を追求する(いわゆる新興宗教ではなく。新興宗教は、無学なおばちゃんを大量に引き付ける必要があるから、教義は薄っぺらだし布教を強いられるしで、人を癒すような側面が少ないです)、そして、必ずしも信仰しなくても思想的な滋養を得る。
あるいは、生活に役立つような仕事の横のつながりを持つ。
こういうつながりが健全だと思います。
2021年卒の新社会人「すでに退職を検討している」が50%、なぜ?
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=40&from=diary&id=6549537
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