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2021年02月09日18:29

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先ずは障碍者スポーツが障碍者に取って如何に大事な物かを理解して欲しいです。

■東京パラ内定の仲喜嗣選手が死去 アーチェリー代表
(朝日新聞デジタル - 02月09日 13:45)
https://news.mixi.jp/view20世紀初頭から、散発的な障がい者スポーツの大会は記録されているが、当大会の起源とされているのは、1948年7月28日、ロンドンオリンピック開会式と同日に、イギリスのストーク・マンデビル病院で行われたストーク・マンデビル競技大会とされる。これは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」の理念で始められたものである。

ストーク・マンデビル病院には、第二次世界大戦で脊髄を損傷した軍人のリハビリのための科が専門にあり、ドイツから亡命したユダヤ系医師ルートヴィヒ・グットマンの提唱により、この日、車椅子使用入院患者男子14人、女子2人によるアーチェリー競技会が行われた。この競技会は当初、純然たる入院患者のみの競技大会であったが、毎年開催され続け、1952年には国際大会となり、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催されました。

1960年には、グットマンを会長とした国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織され、この年のオリンピックが開催されたローマで、第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催された。この大会は現在、第1回パラリンピックと呼ばれている。

第2回大会は、1964年にこの年の夏季オリンピックが開催された東京で、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会が行われた。大会は2部構成で、第1部が国際ストーク・マンデビル競技大会、第2部は全ての身体障害を対象にした日本人選手だけの国内大会として行われた。現在、国際的には第1部のみがパラリンピック東京大会とされているが、日本国内では第2部の国内大会を合わせて呼ばれることがある。

当大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せずいったん中断することとなり、1972年のハイデルベルク大会で復活する。

1976年、国際ストーク・マンデビル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との初の共催でトロント大会が開催され、同年、第1回冬季大会、エーンシェルドスピーク大会も開催された。

1984年のニューヨーク・アイレスベリー大会は当初アメリカの2都市での開催予定であったが諸事情により2国開催となった。

1988年、ソウル大会より、正式名称が「パラリンピック」となった。また、国際オリンピック委員会(以下IOC)が当大会に直接関わる初めての大会ともなり、この大会からは再び夏季オリンピックとの同一地開催が復活した。なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは、1992年のアルベールビル冬季大会からである。

1989年にはIPCが設立され、これ以後、継続した大会運営が行われるようになった。IPC本部は、ドイツのボンに置かれている。

1998年長野パラリンピックにおいてクロスカントリースキー種目だけだが初めて知的障害者の参加が認められ、その後の種目採用の拡大が期待された。

2000年シドニーオリンピック時にIOCとIPCとの間で正式に協定が結ばれ、オリンピックに続いて開催されることと、IPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市での開催が正式に義務化された。一方で、長野大会で参加を認められた知的障害者について夏季大会でも数種目を採用されたが、その内のバスケットボールの試合でスペインチームが複数の健常者を紛れこませて金メダルを攫う不正行為が発覚した。これにより、スペインは金メダルを剥奪され、それ以降の全ての大会・参加種目において、知的障害者が一時参加出来なくなった。

2001年にはIPCとIOCは、スイスのローザンヌで合意文書に調印し、オリンピックとの連携を強化した。2008年夏季大会(北京)、2010年冬季大会(バンクーバー)から運営・経済両面においてもIOCはIPCを支援。また、構成や保護を強化するとともに、組織委員会はオリンピックの組織委員会に統合されることになった。

2012年ロンドンパラリンピックでは、陸上競技と水泳、卓球の3競技で、シドニー大会以降参加出来なくなっていた知的障害者が12年振りに復帰し、2016年リオデジャネイロパラリンピックでも引き続き実施された。その反面、2014年ソチパラリンピックには知的障害者は参加しておらず、2018年平昌パラリンピックも同様である。

名称
パラリンピックの語は、元々、パラプレジア(Paraplegia、脊髄損傷等による下半身麻痺者)+オリンピック(Olympic)の造語であったとされる。IPCによると、ストーク・マンデビル競技大会を指して"Paralympic"の語を使用したことが最初に確認できるのは、1953年のイギリスの新聞の見出しであるが、その名称の由来は不明である。

国際ストーク・マンデビル大会には、各大会において「愛称」が付けられることがあり、1964年の第13回国際ストーク・マンデビル大会(東京大会)では「パラリンピック」の名称が考案され、大会のポスター等にも使用された。1976年のトロント大会では、脊髄損傷者に加え視覚障がい者と切断の選手が出場したことから、「Olympiad for the Physically Disabled」や、「Torontolympiad(トロントリンピアード)」などの名称が使用された。

IOCは、1985年に「パラリンピック」を大会名として用いることを正式に認めた[注 3]。同時に、既に半身不随者以外の身体障害者も参加する大会となっていたことから、大会名の意味を「ギリシャ語のパラ(Para、(英語のパラレル(平行)の語源)+オリンピック(Olympic Games)」とし、「もう一つのオリンピック」として再解釈することとした。これに伴い、1988年のソウル大会から、「パラリンピック」が正式名称となるとともに、1960年のローマ大会以後の国際大会を、遡及的に「パラリンピック」と表記することになった。
 ストーク・マンデビル病院はロンドンから列車で役一時間のアイスベリーと言う素敵な田舎町にあります。

 日本では「太陽の家」の中村裕博士が自費でストーク・マンデビル病院に留学して日本に広めました。  
 30年前に訪れましたが、この病院には日本で初めて資格を取得した「進藤」さんと言う作業療法士の方が活躍しています。

 中途で障害を持たれた方がの大事なリハビリです。心身共に良い影響があります。
 ロンドン大会の成功はこの様な背景があります。
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