〈1/26(火)本日の一言メッセージ〉
「二兎を追って獅子を得る」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21945 〈写真入り記事〉
「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざがあります。
その意味は、それぞれに逃げていく二匹の兎(うさぎ)を追いかけても、一匹の兎も捕まえられないことがあるように、二つのことを同時にやっても、両方とも中途半端で終わってしまうことがあります。
しかし、神様が与えて下さった使命のためには、二兎どころではなく、三兎も四兎も同時に追いかけていく必要があります。
私の職業は牧師です。基本的には、牧師の仕事だけをしながら生きています。
基本的にはと言ったのは、「牧師の仕事はここからここまで」というのは、人間が考え、人間が決めた部分もあるからです。
「牧師らしさ」という牧師像まで出来上がっています。
「絵に描いたような牧師そのもの」という人もいますが、「とても牧師らしいとは思えない」人もいます。
私は、おそらく後者です。
地域のPTA連合会や育成会の懇親会にはじめて参加した時、「失礼ですが、どんなご職業をされているんですか?」と興味津々で聞かれました。「四択で当てて下さい」と言いました。
1、 公務員
2、 セールスマン
3、 会社社長
4、 牧師
「牧師ではないだろうな。一体何だろう!?」
「答えは、牧師です」と言いにくい状況になりましたが、言いました。一斉に、「えーーーーー」と言う声があがりました。
何年か前に、仕事である教会を訪問しました。牧師夫婦が出て来られました。牧師夫人は、私が20歳の時(今から29年前)に、神学校に願書を出しに行った時に受付をしてくれた女性でした。
「えー、菅野先生ですか?懐かしい!今でもはっきり覚えていますよ!」
「どうしてですか!?」と聞いてみました。
「通常、神学校に入学して来る人たちとは違う自由を雰囲気持った人だったので、印象的でした。」と言われました。
それは、良い意味で言って頂いたと思いますが、言葉を変えたら、神学生らしくなかったということなのだと思います。
牧師になった今では、牧師らしくない部分があるかも知れません。(仮に、私が有名な牧師になったとしたら、従来の牧師らしい人が、「あなたは牧師らしくないですね」と言われることになるかも知れませんね。【笑】)
先ほどの懇親会で、四択職業クイズで「牧師です」と言って驚かれたので、「そんなに牧師らしくないですか?」と聞いてみました。
第一の理由は、そもそも、今までに、牧師という職業の人に会ったことがなかったそうです。
次に、牧師は、やせていて、貧しそうで、世の悩みを一身に背負っているようなイメージだったそうです。
明るいし、幸せそうだし、お金持ちそうで、漠然と持っていた牧師像を壊してくれたと言われました。
どんなイメージを抱くのも自由ですが、そのような牧師像を作ったのが神様でないことだけは確かです。
イエス様は大工の子でした。決してひ弱ではなかったはずです。また、大食いで大酒飲み(マタイ11章18節〜19節、ルカ7章33節〜34節参照)と言われています大きな声で笑ったり、豪快な人だったに違いありません。
以前は、牧師らしく見られないことで悩んでいた時期がありました。友人の牧師に相談しました。
友人は、「菅野先生が牧師という枠にはまらないに決まっています。神様は牧師の枠に合うように造られたのではなく、菅野直基という規格で造られたのだから、そんな牧師という枠組みなんて無視して、神様が造られた菅野直基という規格に沿って生きて下さい」と言ってくれました。悩みは一気に吹き飛びました。
それまでは、「『牧師』と『牧師以外の仕事』の二兎を追うことをしてはいけない!」と考えていました。
しかし、神が菅野直基として造られた規格に沿って、三兎でも、四兎でも、時には、五兎でも追いかけながら生きています。
私は、新宿福興教会の牧師ですが、20以上のボランティア団体に所属して、様々な仕事をしています。
出前牧師として、呼んでいただける場所には、どこにでも出張します。
大会での講師や音楽ゲストとして呼ばれることもあります。
結婚式や葬式の司式、引越しの手伝い、大会のゲストの接待や送迎、外国から来られた宣教チームを富士山や箱根にお連れしたこともあります。
病床で臨終の人に洗礼を授けたこともありますし、マクドナルドやファミリーレストランで洗礼式をしたこともあります。
友達がいない人の友達として、自宅を訪問したり、慰問したこともあります。
深刻な悩みの相談を受けたこともあります。一言でも口外したら、大変な騒ぎになるような秘密を聞かせてもらったこともあります。
日本各地や外国からも呼んでもらうこともあります。
神様が私に与えられた仕事は、牧師の枠組みに入っている仕事も数多くありますが、通常の牧師がやらないような仕事をすることもあります。
神様は、世の中の人が考える牧師という枠にはまった仕事をさせるためではなく、神様がさせたいと思う仕事をするために私を造られ、召して下さったと思います。
「二兎を追って獅子を得る」という題を付けましたが、聖書は、「イエス・キリスト」のことを「ユダの獅子」と呼んでいる箇所があります。
『すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます」』(ヨハネの黙示録5:5)。
私は、たくさんの兎を追いかけているのではなく、その向こうにおられる「ユダの獅子」=「イエス・キリスト」を追い求めています。このお方が私のすべてだからです。
獅子はどんな存在でしょうか?
世界最古の建造物であるエジプトのスフィンクスは、体がライオンでできています。エジプト文明では、獅子を特別な獣と考えていました。
古代アッシリアでもライオンの彫刻が多く見られます。
ライオンの持つ属性は、権力や王の象徴であり、支配者のイメージを持っています。
西洋からインドにかけては、獅子は「百獣の王」と言われてきました。
「ユダの獅子」と呼ばれるイエス・キリストは、勇ましい王の王であり、天においても地においても一切の権力を持ったお方であり、そのイメージにふさわしいお方です。
『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』(マタイ28:18〜20)。
人が作った牧師像は、やせていて、貧しそうで、暗く、世の悲しみを一身に背負っていて、悲壮感が漂っているという、おおよそ、実際のイエス・キリストのイメージとは、似ても似つかないのではないでしょうか。
もちろん、全人類の罪と死、病と呪いを一身に背負われました。
『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた』(イザヤ53:2〜5)。
十字架にかけられたイエス・キリストが、そこまで悲惨な状態にさせられたのは、私たちの身代わりとして死なれたからです。
しかし、聖書は次のように語ります。
『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです』(第二コリント8:9)。
キリストは、物々交換するかのように、私たちの貧しさを引き受けられ、代わりに、ご自分が持っておられた富を私たちに与えて下さいました。
私たちは、キリストの豊かさ、キリストの輝き、キリストの愛、キリストの恵み深さを現わし、伝えていきたいものです。
私は、ユダの獅子であるイエス・キリストを追いかけ、追い求めた結果、何匹もの兎を追いかけていきたいです。
今日も、この方を追い求め、この方から目を離さないで生きていきましょう。
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい』(ヘブル12:2)。
【動画メッセージ】
「幸せを感じる秘訣」
https://youtu.be/u2NSSxHnDfk
【新宿福興教会 オンライン主日礼拝】
https://youtu.be/8cr8Ibauuos (夕礼拝)
【路傍伝道新聞1月号】
https://www.facebook.com/100001612036760/posts/4045435288853499/?d=n
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