随分と間が開いてしまいましたが、前月の四連休の20日に、愛知県岡崎市にある岡崎城を見学してきました。
三河国の守護代であった西郷稠頼(さいごうつぐより)によって築城されたとされ、後に松平清康(まつだいらきよやす)に奪われた現存する縄張りの原型となった城に改修されました。
実は西郷稠頼も同じ地域に勢力を持つ大草松平(おおくさまつだいら)氏であり、清康は安祥松平(あんしょうまつだいら)氏に当たります。
実は実際に岡崎城に行って初めて松平氏の歴史を学んだのですが、徳川家康の父に当たる松平広忠(〜ひろただ)の代までは分家同士である松平氏同士が激しい勢力争いをしていた地でもあり、中々把握する事が出来なかったんです。
この辺、次回以降の見学への課題となってしまいます。
平坦なイメージがあった岡崎城ですが、実際は乙川(おつがわ)と伊賀川(いががわ)の合流点にある小高い丘に造られているので、川沿いから見ると結構な高さがあったり、このようなかなり深い空堀もあったりします。
二の丸の石垣。
野面積みと打ち込みはぎの中間のような積み方にも思えますね。
家康産湯の井戸。
あくまで私個人の感想なのですが、家康ってあまり岡崎城に思い入れが無かったんじゃないかな、と思っています。
浜松城は自力で手に入れたから思い入れもあるでしょうが、人質時代を過ごした駿府城に居を構えているんですからね。
幼少時代の何か嫌な思い出でもあったのでしょうか?
東海地方で3番目に大きな縄張りを持った城でしたが、廃城令後の払い下げにより多くの城域が失われてしまいました。
開発に伴う発掘調査により総構えの様子が段々とわかってきているので、今後の調査に期待したいところです。
上記したように、この土地は松平諸家による勢力争いの場でもありました。
いつものように大まかに目的の城を決めて、ネットでその周囲の小さな城をしらみつぶしに探すという方法を取ると、あるわあるわ無名の城跡がわんさかと(笑)
とてもじゃないけど一日じゃ回り切れないので、とにかく一か所その勢力争いに関係しそうな城へ移動。
まずは山崎城(やまざきじょう)。
西三河まで勢力を伸ばしていた織田信長の父、信秀(のぶひで)によって築城されたとされていて、広忠の後見人で一度は権力を奪われた松平信孝の城となります。
要するに織田信秀は自分の勢力圏を広めるために松平諸氏の抗争を利用した事になりますが、これが分かりづらい!
が、面白い!!
この辺りの事情を理解してから見れば、また違った見え方もするのでしょうね。
城跡とはいえ神明社の裏手に空堀が残っていて、社の裏手に若干土塁が残されている程度。
おそらくここにあった屋敷を利用して城塞化したものと思います。
周りはのどかな田園風景なのですが、若干の微高地に占地しており、高さの重要性というものも理解できます。
因みに近くにある正法寺(しょうほうじ)は保科正直(ほしなまさなお)屋敷跡になります。
保科正康は旧武田家臣で高遠城主でもありましたが、武田家滅亡後は後北条家、徳川家を渡り歩きこの地で久松松平(ひさまつまつだいら)氏と縁戚(親戚)関係になり勢力を伸ばしたとか。
最後に安祥城(あんじょうじょう)。
上記したように安祥松平氏発祥の地とされています。
縄張り図Aの場所が本丸で、現在は大乗寺(だいじょうじ)が建立されています。
大乗寺境内内の土塁と櫓台と思しき遺構。
周囲は歴史博物館や公園として整備されてしまっているので、残念ながら遺構の残り具合は良くありません。
とは言え、道路を挟んだ反対側には二の丸の土塁跡が残ってたりします。
この城も織田家や松平家、今川家の抗争の現場となり、何度も攻城戦が行われたそうです。
織田信秀に攻め取られた安祥城を取り戻すために攻撃した松平広忠でしたがあえなく敗退、岡崎城に撤退する際に殿を務め討ち死にした本多忠豊(ほんだただとよ)の墓。
ピンときた方も多いと思いますが、徳川四天王の一人、本多忠勝(ほんだただかつ)の祖父に当たる人物です。
今回思い知らされたのは、やはり地元の歴史を少しでも知ってからじゃないと城巡りの楽しみは半減する、という事です。
家康以前の松平家なんで(大変失礼ですが)ほとんど興味を持っていなかったので、こういう事情があり城の乱立地帯だったのか、という事を直前に理解できました。
逆に言えばその歴史を知っていると、無名の小城もまた違った見え方をするのではないかと、次の訪問が今から楽しみになってきました。
最後に言い訳ですが、松平諸氏の関係については浅学にてウィキペディア等で調べながら書いたものです。
もし間違いがあったとしたら、それは理解せずに書き込んだ私の全責任である事をお伝えしておきます。
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