前回の日記の続編です
写真は東北本線から見た蔵王連峰。
青森市内「のらくろ(鎌蔵)」に役所のAさんでも居ないかなと覗くも知り合いがおらず。
別のお店で、弘前名物「いがメンチ」。
津軽の郷土料理なんで青森市街では中々置いてないのです。
そして青森の郷土料理といえば「貝焼味噌」。
実際は本物のホタテ貝殻(市場で大量に売ってる)を使って卵とじを作ります。
東北本線を南下します。
北上川から一ノ関まで至ればこっちのもの。
松島付近。
窓際の半裸のオッサン、風俗雑誌を見ながら交互にスマホを操作をず〜とやっている。目当ての風俗嬢スケジュールのチェックか予約か。
1時間以上メイクを続けてる娘も複数。
食べ終わったコンビニ弁当の中敷きやパッケージを床に投げ捨てる兄ちゃん。
流石、伊達の土地。栃木以上に民度が低い。
仙台からは全線開通した常磐線で。
「原ノ町」駅では帰宅可能時間まで地域探索に出る事にしました。
駅通り(小浜字町線)を西進します。
何故か交差点の角に鏨の跡がある石が飾ってあったりしますが、意図は分かりません
玩具屋
シャッターは開いてるものの中は雑然としていて照明は点いてなく、オッサンのアウトドア趣味的用品ばかりで子供向け玩具は見当たらず、営業してるのかさえ分からず。
街の劇場、登録文化財「朝日座」。大正12年、関場清松設計。関場建設。
味わい深い物件多し。
小浜字町線と旧陸前浜街道が一直線ではなくそれぞれクランクに成って交差しています。
左右(南北)に走っているのが旧陸前浜街道(旧国道6号)で、昔の原町中心地がここと成ります。
「小林眼科医院」昭和6年、関場建設。
敷地の石積塀等は撤去され、建物のみとアスファルト舗装し直された配車広場と成ってますが眼科は現役です。
旧陸前浜街道沿い醤油味噌醸造「今村醤油店」。
表通りから一歩入ると小さな平屋の住宅ばかりです。
街道に戻って「丸一食堂」
原ノ町では協定でもあるのかどの飲食店も17時から営業で、駅前の食堂と立ち食い蕎麦以外で日中営業している飲食店はここくらいのようです。
真新しいコンクリ打ちっ放しの建物は、かつては木造の銃砲火薬店で8年前に火事で失われ、銃弾が破裂して大変な騒ぎだったようです。
撮影方向の背後が旧松本銘醸の建築物を保存している「銘醸館」という施設なんですが、大変残念な感じです。
氷室蔵の庇の配線。
昭和蔵の展示物。
給水塔が唯一の見どころ。
他の蔵はイベントスペースと成っており、甲冑展示&着付け体験をやってましたが、係員以外は誰もおらずサクッと無視。
こうした廃施設を観光協会拠点として地域案内所・食事処・イベントスペースに転用している自治体は多いですが、安易な姿勢で上手く行く筈がありません
通りを一つ西に行くとキッチンカーで営業している「野馬土手カレー」があります。
http://nomadote-curry.com/
タマネギ中毒にはたまらない、まるごと一個カレーの中に鎮座しているスタイル。しかも今月から地元農場で採れたばかりの新玉葱ですよ
で、到着したら影も形も無い・・・・
HPを確認したら「今日はイベントに出張しております」と。せめて前日夜にアナウンスしてよ
結果、この日は丸一日、日付が変わるまで何も食べない羽目に。
さらに北西に進むと「陸奥牛越城址」があるんですが、今回は時間の関係でパス。
周囲より小高く成った「夜の森公園」へと来ました。
旧原ノ町中心部の南側は、野生馬が外に出られないように野馬土手で囲んだ広大な「野馬追原」で、街道などには木戸門が設けられてました。画面の向こう側平地には苅屋沢門がありましたが、今は野馬土手も門の痕跡もありません。
公園には地域の石碑が多く集められてます。右から二番目は「東宮殿下(後の昭和天皇)行啓記念碑」、左端は日清戦争関係ですが裏側の碑文が削られており誰が建てたか分かりません。中央の土台は足跡だけ残り、かつては少年の像?が立っていたと思われます。
画面右端「第四神風特別攻撃隊 志賀敏美少尉」像。
左から二番目「第一神風特別攻撃隊 中野巌雄少尉」像。爆弾がよくある板金のナンチャッテではなく鉄の塊で、安全解除装置部分は実物通りのネジが切ってあって厳重に栓が捩じ込まれてますが、弾体が実際の250kg爆弾かどうかは私には分かりません。
公園を南に降りると橋がありますが、かつては池と小川がありました。
画面右手には馬頭観音。この地域は供養の為の馬頭観音が凄く多いです。
その手前の杭状は鉄道枕木で、サイズから原町森林鉄道のものと思われます
この地域の有名な祭りに「野馬追」がありますが、明治期までの地域住民はこの高みから見物したそうです。
公園前から南西に一直線に進む旧昼曽根原町馬場街道(現県道原町浪江線)を進みます。
X字型交差点。
飛行場建設に伴い、その敷地内を通る馬場街道と原町森林鉄道は北に迂回するルートに付け替えられました。
道は本来、画面左方向だったものの、右折方向へ道が新設され、さらに背後方向から付け替えされた森林鉄道が来てここで合流し、道路と軌道が並行併設の本線と、分岐し旧道に敷設された原町紡織専用線に成りました。
このまま旧道を進みます。
街中心から1kmくらい来ると南側に団地が見えますが、「原町紡織」の跡地です。
さらに300m程進むと交差点があり、その先が原町陸軍飛行場「雲雀ヶ原臨時飛行場」(鉾田教導飛行師団原町飛行隊)跡地です。
ここで左折。
200mほど進むとT字路があり南西を向くと森林鉄道軌道跡の道路があります。
背後は元々紡績工場に隣接した軌道がありましたが、今は痕跡がありません。
地位柄、馬と白百合をやたら見かけます。
デザインマンホール。
大小デザイン違いを3種類見かけました。
飛行場跡地の北東半分は完全に住宅街化されてます。
古い農家だと思いますが、家を新築した際に古い母屋と塀か生垣を撤去したんだと思われます。
どこまでも続く直線の廃線跡を700m程進むと突然住宅地が終って農地が現れます。
牛も居るぜ。
トンボ天国。
農地にはあちこちに先に紙が挟んである竹竿が立っており、地域農業再生協会の現地確認票でした。
T字路から2kmほど真っ直ぐ進んでようやく終点が見えて来ました。
突き当りが「第一格納庫」跡と、右手の墓地が「第二格納庫」跡です。
手前の路地を左折して南西を見る。
真ん中の道路と直角でない境界の右側が格納庫跡。
軌道跡に戻って元来た北東方向を見ます。
終点突き当りから北東方向。コンクリの左側が格納庫跡地。
ここから先(背後方向)の軌道跡は農地となり一旦消滅しています。
第二格納庫跡へと。木の柱は当時の物か不明。
墓地は完全に格納庫の敷地の形と合致します。
コンクリート敷ですが、建物は前方後方墳型の後方部分だったと思われます。
爆撃機が入れるくらいの広さがあります。
滑走路側から。
滑走路は直線の舗装されたものではなく、ダダッ広い広場で飛行機は風上に向かって自由方向に離着陸する仕組み。まさに馬場の転用そのものです。
墓地内の基礎は飛行場格納庫の時のままのようです。
淵の部分も新設された柵とは明らかに違うものです。
さらに北西に移動して「第三格納庫」跡に。
北を見ると何か有ります。
第三格納庫跡を北西側から。
旧馬場街道に出て南西方向。もう少し行くと二重クランクに成ってます。
アンテナは「NHK福島放送局原町ラジオ中継放送所」です。
飛行場の遺構っぽい物はとりあえず撮影。
第四格納庫の遺構に到着。
ボルト部分にトラスアーチが接続されていて、カマボコ型格納庫を構成していたと思われます。
北東側の住宅の敷地はカマボコ格納庫正面の舗装部分がそのまま利用されているようです。
続いて第五格納庫。
丁度住宅をカマボコ格納庫に置き換える感じですね。
第五格納庫跡から南西に進むと、司令部跡に到着します。
この交差点はかつてはロータリーでした。
遠方のこんもりしてるのが雲雀ヶ原神社で、その手前の水田が司令部跡です。
交差点の北西方向。交差点が面取りされていてロータリー跡だと分かります。
向こうに正門が見え、突き当りのT字交差路が付け替えられた新馬場街道(原町浪江線)と森林鉄道新軌道跡です。
原町浪江線を北東(市街)方向。
正門方向。
幟竿支柱があちこちに立ってますが、飛行場遺構ではなく戦後の催事用と思われます。
正門に戻ります。
表札には「元原町陸軍飛行場正門」と書かれており、戦後に取り付けられた物ですね。
正門は北西を向いており、旧国道6号(陸前浜街道)は正面方向で飛行場の向こう側、国鉄原ノ町駅も飛行場の北東反対側に成ります。
したがって司令部へのアクセスは新馬場街道か森林鉄道の利用が前提に成りますが、不便は無かったのでしょうか。
そのまま進んで「雲雀ヶ原神社」へ。
石柱左の欠けに注目
米海軍機による機銃掃射の際に、.50口径弾がかすめた跡のようです。
向こうが司令部跡。
正門方向。
さらに南西側から。
左から司令部跡、雲雀ヶ原神社、第二格納庫跡、第一格納庫跡。
原町森林鉄道跡。第一格納庫位置で一旦途切れましたがここから復活。
右の標識は「ハイドロバルブ」と読むのでしょうか。
呑気な風景が続きます。
農地のあちこちに見える樽状の簀巻きは、作物をポリエチレンフイルムで巻いて空気遮断し発酵させ飼料に替えるロールベールラップサイロと呼ばれる物。今や米需要の減少で稲でさえ飼料とされる時代です。
南東に1kmほど進みます。
向こうの廃墟の構造が不思議でが元々何だったのか気に成ります。
道路工事と馬頭観音、モニタリングポストは同じ数くらいこの地域では沢山見られる光景です。
細い道を二車線に拡幅、それを四車線にという事を延々と繰り返してる痕跡がそこらじゅうに見て取れます。
接近したT字路は道路拡幅に伴い合体させて十字路とし、残されたT字路痕跡の使用されない盲腸部分にもご丁寧に再舗装を施すという徹底ぶりに関心さえします
「仮置場原状回復作業中」の立看方向を見ると。
遠方で重機が除染で生じた除去土壌を撤去する作業をしてました。
こうした土地も多数あり、跡地に太陽電池パネルを並べる例が多い印象です。
右側の「陣ヶ崎二公会堂」。
飛行場の食堂を移築したそうですが、細部を観察しても昭和40年頃の建物にしか見えません。
野馬土手内側の地質は段丘堆積物ですが、その淵の丘陵は海生砂岩泥岩で隆起したものである事が工事で地層が露出した崖から見て取れます。
旧食堂から北東へ1kmほど。
森林鉄道用枕木発見。
風景より農機の方に目が行ってしまいます
終戦直後の空撮写真には丘に向けて飛行場から何本も筋が伸びており、単発機用の横穴が掘られていたと思われます。
丘を登ってNHKアンテナを目印に格納庫・司令部跡方向を見ますが写真ではよく分かりません。
滑走路跡中心方向。
原町市街はもっと画面右手方向です。
周辺は市営墓地に成ってます。
左から「戦争被災者慰霊碑」「飛行場慰霊碑」「戦没者忠魂碑」です。
他にも忠犬を弔う「犬精番墓之碑」などもありました。
墓地を降ります。
幟竿支柱を引っこ抜いた跡。
陸軍の境界標を探すも見つかりません。残されてる場所とされる地点に行ってみると、真新しいコンクリートが打たれてて影も形も無かったり。
正体不明の境界標は掘り起こしたく成ります
他には「福島県」「原町市」「南相馬市」を確認しました。
農業高校の敷地内に見かけた表札が外された門柱。
位置的に飛行場の南門だった可能性もあります。
司令部跡から北東に2kmほど、現代の「相馬野馬追祭場地」に到着。勿論今年は中止でした。
「馬頭観世音」の題字は建立当時の内閣総理大臣、田中角栄先生によるもの。ラオウは拳王様、デーモン小暮はデーモン閣下と呼ぶように、田中角栄は田中角栄先生と呼ぶのが相応しいと思います。
祭場を国鉄枕木転用の杭が囲んでます。
馬は大変人懐っこくて、カメラを向けるとポーズを取ってからこちらへ寄ってきます。
ノスリ?
「南相馬市博物館」へ。
「原町無線塔」頭部
ウマスク。
この日は入場料無料でした。検温では37.4度でギリギリセーフ。
館内撮影自由。
アイナメとホッキ料理が名物らしいと分かりましたが、駅周辺では食べられそうも無い感じ。
スバル360。
展示室入るとイキナリ馬ですよ
梁漁も盛んだった模様。
無線塔の碍子と模型。
右の写真は原町紡績。
飛行場関連の展示もそこそこ。
豊島沖海戦の展示もあったので、夜の森公園の日清戦争碑と関連しているのかも。
「C50 103」。
周囲は国鉄枕木の柵で囲まれてます。
「野馬土手」。
本陣跡の南側で味わい深い物件ウオッチ。
市街地の原町森林鉄道軌道跡へ。
北西方向を見ています。
飛行場建設で付け替えられた地点で、前方真っ直ぐ行くと馬場街道と交差するX字交差点へ。
画面右方向が原ノ町駅。
元々は左斜め前方に真っ直ぐ伸びていたものが、付け替えで消滅したようです。
消滅した裏側に回ってみると・・
道路に対して斜めのブロック塀が鉄道敷地境界の痕跡ですね。右手の建物は床屋でこれも味わい深い物件でした。
軌道跡の道を駅方向に少し進んで振り向いたところ。
くの字に曲げられた事がハッキリ分かります。
信号予告灯も良い感じです。
くの字から500mほどの元来た方向。
これも国鉄枕木ですね。
くの字から1kmほど。駅にかなり接近しています。
右は森林鉄道時代の遺構?
正面は機械屋跡です。
その隣は魚屋跡
駅の近くは道があちこち分断されていて森林鉄道跡が特定出来ません。
再開発中の原ノ町駅前。
食堂と立ち食いソバ屋の辺りが貯木場だったと思われます。
駅から司令部跡までは5kmほど。レンタサイクルが無いので徒歩走破は大変です。
再び常磐線を南下。
福島第二原発。
もはや船舶でも使われなく成った蒸気タービンという名の産業遺産を後世に伝える為にも原発は稼働し続けねば成りません(棒読み)
虹が出ました。
赤い光が東海第二原発。
おしまい。
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