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2020年08月09日03:04

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炎のスプリンター・人見絹江。






本来でしたら今頃は東京オリンピックで馬鹿さわ・・・じゃなくて、
大いに盛り上がっていた筈でした。

日本人女性初のオリンピック選手と言えば、陸上競技の人見絹江さんです。
人見さんは1907年岡山県で生まれ。

県立岡山高等女学校(現・岡山操山高校)ではテニスの選手でしたが
狩り出された県の陸上大会で走り幅跳びの当時の日本記録を上回る4メートル67をマークし活躍の場を陸上に移しまた。

二階堂体操塾(現・日本体育女子大学)に入り陸上で活躍した後
文章を書く事も好きだったので、1926年大阪毎日新聞に入社。


28年オランダのアムステルダムオリンピックで初めて女子の陸上競技が行われた事で
日本初の女子陸上選手として出場します。

得意の走り幅跳びは種目になかったので、100メートル走に出場したものの準決勝で敗退
「このままでは日本に帰れない」と練習もした事がない800メートルの出場を決断。

そして8月2日決勝で「死の激走」の末、日本人女子初の銀メダルを獲得。



帰国後も海外遠征や講演活動などに精力的に取り組みました。
自分が出場した大会を記事にし、競技の解説書や自伝も出版しました。

毎日新聞と言えば、春のセンバツ高校野球の主催者ですが
開会式でプラカードを先頭に出場校が入場行進をする事、
試合終了後に勝利校の校歌を演奏し校旗の掲揚を行うのも人見さんの考案でした。



1931年に肺炎のため24歳で死去。
アムステルダムでの銀メダルから丁度3年後の事でした。

炎のスプリンターが炎症でこの世を去ったのはなんとも皮肉な事です走る人炎

♪「今ありて」



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