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2020年05月13日16:36

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ベルリンの壁を崩壊させて、すぐにドイツ統一にしてよかったのだろうか?


今日の日記は東西ドイツの統一をテーマとした記事です。今のドイツの政治状況に興味がないと読んでもつまらないかもしれません。これも僕がかつて他のブログに書いたものです。(苦笑)


1989年11月にベルリンの壁は崩壊し、ドイツは翌年の10月10日に再統一された。しかし、ドイツの経済状態を少しでも知っている人なら、東西ドイツ統一はそんなに上手くいっていないということをよく知っているだろう。いや、経済状態を知らなくても、ドイツサッカーに詳しい人なら、今のブンデスリーガ1部にいるチームは、アメリカのレッドブル社が大金を投資している「RBライプチッヒ」を除けば、旧西ドイツのチームだけということを知っているだろう。余談だが、「RB]というのは普通に考えれば「レッドブル」という企業名なのだが、「ブンデスリーガではチーム名に企業名を入れてはいけない」というルールがあるので、レッドブル社は知恵を絞って、「RB=Rasen Ballspiel] RBは”芝生でのボール競技という意味”」と主張して、無理にRBをチーム名に入れることに成功した。(笑)

話を戻すと経済的に強かった西ドイツ経済が共産主義の貧しい東ドイツ経済を吸収するような統一だったため、何人かの東ドイツ人は、ドイツ再統一の後、職を求めて豊かな西ドイツへと移住してしまった。

サッカー界でも、多くの才能のある選手が、ごっそりと西ドイツの金持ちチームに引き抜かれてしまった。東ドイツの名門チームだった「ディナモ・ドレスデン」の主力選手(ザマー、キルステンなど)などは、そのいい例であり、そのせいで、東ドイツのクラブチームはあっという間に弱体化してしまった。今のドイツ代表キャプテンのバラックも東ドイツ出身で、才能を認められて西ドイツに引き抜かれた選手だ。


それでも、1989年にベルリンの壁が崩れた時には、当時、20代前半だった僕も大喜びしたものだった。僕だけでなく世界中の人たちが大喜びしたと思う。だが、このベルリンの壁崩壊には、当然ながらかなりの秘話がある。

一つは有名な話だが、ベルリンの壁が崩壊したのは、当時の東ドイツの最高指導者だったシャボウスキーの勘違いだったということ。

1989年秋にゴルバチョフのペレストロイカ(改革)のお陰で、東欧が民主化、自由化されて、東ドイツにもその波が押し寄せ、東ドイツ政府もかなり混乱していた。長年、東ドイツ政府のトップに君臨していたホーネッカーは、さっさと国外に亡命してしまい、後継者のシャボウスキーに東ドイツ政府の運命は委ねられた。シャボウスキーと東ドイツ共産党の幹部は、
「国民に自由に旅行ぐらいさせても、東ドイツ政府がなくなることはないだろう」
と考え、外国への旅行の自由化を発表する記者会見を開いた。

以下、ウィキペディアからの抜粋。

東ヨーロッパ民主化の混乱の中、1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内及び世界向けに放送された生放送での記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する。しかし、混乱の中、ドイツ社会主義統一党書記長(当時) エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボウスキーは、
「11月10日から、ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国に関する規制緩和」
だったのを、
「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」
と誤って発表してしまう。さらに記者から、
「(この政令は)いつから発効するのか?」
との質問に対して、
「私の認識では直ちにです。」
と発言してしまった。これがきっかけとなり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、ベルリンの壁崩壊へと至り、ドイツ再統一に結びついた。


さらに二つ目には、東ドイツ政府は、西ヨーロッパ、さらに他の資本主義諸国も高い失業率に困っていることを把握しており、東ドイツ国民に自由な旅行を許可したとしても、多くの国民は、一旦は、西ヨーロッパに喜んで出て行くだろうけど、資本主義国の厳しい経済状態を知れば、ガッカリしてまた東ドイツに帰ってくるだろう、という計算があったようだ。ベルリンの壁が崩壊した1989年秋頃は、日本だけがバブル最盛期で一人勝ちの状態であり、その他の欧米諸国の経済状態はあまりよくなかった。

「豊かな西ドイツ、西ヨーロッパに行けば生活は楽になるだろうと思ったが、どこの国の生活も大変なんだ。東ドイツとあんまり変わらないという厳しい現実を国民が知れば、東ドイツ政府とベルリンの壁が崩壊することはないだろう」
というふうな結論に達したらしい。あるいは、仮にベルリンの壁が崩れることがあっても、東ドイツという国がなくなることは絶対にあり得ないと考えていたようだ。現に、当時、イギリスの首相だったサッチャー首相も、
「ベルリンの壁が崩れるのは素晴らしいことだけど、東西ドイツの経済格差を考えると、急な統一はするべきではない。ドイツの再統一は10年後ぐらいを目標にして慎重にするべき」
などと慎重な発言していた。

僕がシュツットガルト郊外に住むH家にホームステイをしたのは1999年春だったが、再統一から数年経った当時でも、旧東ドイツでは、こんなことを言う人がいたという。
「東西ドイツ再統一は失敗だった。壁をもう一度、作り直すべきだ。1945年から1990年まで、45年間も東西に分断されて生活していたのだから、それを、再び統一するなんて不可能だったのだ」
こういうことを発言する人は、東ドイツの中小企業の重役が多かったらしい。

そして、西ドイツの大手企業の重役は次のようなことを言っている。
「40才以上の元東ドイツ人がウチの会社に就職、転職したいと言っても、あまり採用する気にはなれない。なぜなら、彼らは共産主義の学校を卒業しているので、資本主義、自由競争というものがよくわかっていない。元東ドイツ人の多くは、労働意欲が低いのは明らかだ」

2006年春から東北大学で勤務していたドイツ人弁護士のSは、旧東ドイツ地域への補助金について2008年秋にトークした時に、「東ドイツへは既に日本円で1兆円以上の補助金を払っている。20年近く補助金を払ったのに東ドイツの奴らは全く労働意欲があがらない。俺と妻のMには東ドイツに親戚も友達もいないから、もう東ドイツ地域なんて知らないね」などと言っていた。

僕の友達Sと彼の妻Mのように同じドイツ国民なのに、「東西ドイツ統一?俺にはあまり関係ないね」というドイツ人もびっくりする事実だがいるのだった。1999年にホームステイしたシュツットガルト近郊に住むH家の主人は、こう言っていた。「うちの家族は東西ドイツ統一後もあまり変わってない。私(主人)と妻はハンブルク付近の小さな町の出身で旧東ドイツ地域には知り合いすらいないし、ここシュツットガルトは旧東ドイツ国境からは遠いから、滅多に東ドイツ人とは合わないからね。東西ドイツが統一されても、シュツットガルト付近ではあまり変化はない。ただ、東ドイツ地域への補助金を国の税金から払うことになったのと、私がたまに仕事の出張で東ドイツに行くようになったくらいかな。それ以外はほとんど変わってない」

そして、今ではベルリンにはDDR(旧東ドイツのこと)博物館がオープンし、元東ドイツ国民だった人達が東ドイツ時代に思い出を馳せ、さらに、元西ドイツ国民が東ドイツの生活を知る場所となっている。ドイツ政府も東西ドイツ国民の本当の統一のために色んな工夫をしているが、なかなか上手くはいっていないようだ。さらに、今のドイツではメルケル内閣の方針で多数の移民と難民を受け入れる政策を行っているので、移民難民が東ドイツにも押し寄せているので、東ドイツの貧しいドイツ人はネオナチ運動を開始するなどの混乱が続いている。

このような今の東ドイツの現状を見てくると、当時の東ドイツ政府首脳の結論、
「ベルリンの壁を崩して国民に自由に外国に旅行させても、東ドイツが消えることはないだろう」
ということは、そんなに間違っていなかったのかもしれない。

でも、もちろん、ベルリンの壁を越えようとした人、無断で国境を越えようとした人を銃殺するような東ドイツという国が、異常な国家であったことは当然なのだけれど。


写真左は東ベルリンから検査官のいない検問所を越えて、西ベルリンへと出国する東ドイツ製のトラバント乗用車に乗った東ドイツ市民。この時は東西ベルリン市民は大喜びだったが、その後の東西の経済格差に落胆することになる。写真右は今のドイツ国内で勢力を伸ばしつつある右派政党の[Alternative fuer Deutschland](ドイツのための選択肢)の首脳。特に旧東ドイツ地区で急速に力を伸ばして、前回のドイツ連邦議会選挙では遂に戦後初めて右派政党が連邦議会に議席を獲得した。でも、この政党でも日本の自民党と同じくらいの政治的主張らしい。日本の自民党右派のように「靖国神社に毎年参拝する」「従軍慰安婦はでっち上げ」「南京事件はなかった」「原発推進派」「移民難民は制限する」「LGBTは理解しない」「夫婦別性には反対」というような本当の右翼主張の政党は、ドイツではまだまだ力が弱い。

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