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2020年04月09日20:53

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チェロ協奏曲第1番

クシシュトフ・ペンデレツキ作曲
チェロ協奏曲第1番
アルト・ノラシュ(チェロ)
クシシュトフ・ペンデレツキ指揮
シンフォニア・ヴァルソヴィア


かんち自身の解説

志村けんの作風とは真っ向から対立するような、深刻な作品を作り続けてきたのが、先日亡くなりましたペンデレツキです。

特に、20世紀という戦争と狂気の世紀を生き抜いてきた彼の、透徹した目はもはや個性。その個性が志村けん同様濃ゆいので、聴くには多少引けるくらいの作品が多く、鑑賞会でとり上げるにはどうしようかなあと、これもまたモーツァルトのお下劣モテット同様、使いどころを迷っていた作曲家なのです。

その中でも比較的聴きやすいのが、このチェロ協奏曲ではないかなあと思います。特に第1番は演奏時間も短いので、入門編としてはある程度適切な気がします。それでもその和声を聴いたら、なんじゃこりゃと思うかとは思いますが・・・・・

ポーランドという苦しみの中で生き抜いたペンデレツキの、お笑いにしたらシャレにならないその人生が色濃く反映されている作品をぜひとも味わっていただけたらと思います。

志村けんが東村山音頭で白鳥の衣装をまとえることが、じつはどれほど幸せなことなのか・・・・・

ペンデレツキの自作自演で、ソリストはノラシュ、オケはシンフォニア・ヴァルソヴィアの演奏でお送りします。

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クシシュトフ(またはクリシュトフ)・エウゲニウシュ・ペンデレツキ(Krzysztof Eugeniusz Penderecki [ˈkʂɨʂtɔf ɛuˈɡɛɲuʂ pɛndɛˈrɛt͡skʲi] 1933年11月23日 - 2020年3月29日)は、ポーランドの作曲家、指揮者。クラクフ生まれのカトリック教徒。ポーランド楽派の主要作曲家の1人である。オーケストラを用いたトーンクラスターに大きな特徴があった。創作の頂点とされるルカ受難曲を書き上げた後は新ロマン主義へ傾倒し、作風を古典的なものへ回帰させていった。主に自作の指揮を手がける傍ら、古典作品も振る指揮者でもある。

「ミュージカル・ソー」は本物の鋸ではない実在の楽器であるが、ペンデレツキは本物の鋸を初めて打楽器パートに指定した作曲家として広く知られる。

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クシシュトフ・ペンデレツキKrzysztof Pendereckiは1933年デンビツァに生まれた。デンビツァ(イディッシュ語ではDembitz)は地方の小さなユダヤ人の町で、大半がハシディズム(超正統派)の人々だった。ペンデレツキの作品に繰り返し現れるユダヤのモチーフはここに由来する。

「何年も経った後で、昔聞いた音楽が戻ってきたのは不思議なことでした。私の二つの作品、『六重奏曲Sekstet』(2000)と『コンチェルト・グロッソConcerto grosso』(2001)の中にはクレズマーが意識的に再現されています。このようなモチーフはおそらく子供の頃に耳にしたのだと思います。」ポーランド・ラジオ第2放送でペンデレツキはこう述べている。

ペンデレツキの家族はアルメニア、ドイツ、ポーランドの出自を持つ。祖父はドイツ人の福音主義者だったが、妻のためにカトリックに改宗(作曲家によれば、この時カトリック新改宗者となった)。祖母はスタニスワヴフStanisławów(現在のイヴァノ=フランキフスクIwano-Frankiwsk)の出身でアルメニア人だった。有名なポーランドの演出家・教育者であったタデウシュ・カントルTadeusz Kantorは親戚で、ペンデレツキの母の年下の従兄弟にあたる。

多くの作曲家と異なり、ペンデレツキは音楽一家の出ではない。両親は、教養人にするためには芸術にも造詣がなくてはと考え、子どものクシシュトフと兄弟をピアノのレッスンに通わせた。しかしこのレッスンは将来の音楽の反逆児にとっては悪夢で、言うことを聞かない生徒に教師はすぐに音を上げた。

しばらくして、ペンデレツキの父はプレゼントにヴァイオリンを受け取った。少年クシシュトフはこのヴァイオリンに強い関心を示し、達人になろうと志した。早朝から登校まで、そして帰宅後すぐに練習した。友達がバッハのソナタの厚い冊子をくれ、ペンデレツキはこれに夢中になった。

中学校ではバンドを結成し「冗談風しかし現代風に言うならば、デンブニツァの音楽生活におけるアニメーター(活気づける者)、そしてオーガナイザー(興行主)となった」とクシシュトフ・リシツキKrzysztof Lisickiが1973年に記している。今で言うならば、ペンデレツキは町のアクティヴィスト(活動家)だったと言えるだろう。卒業試験を終えると、両親は息子をクラクフに一年行かせ、将来の進路を自分で決めさせた。ペンデレツキは音楽の他に文学にも魅了され(西洋古典学を学びたいと考えていた)、美術にも関心を抱いていた。

周知の通りペンデレツキは音楽を選び、間もなく最初の成功を収める。正確には最初から記録を打ち立てた。1959年ポーランド作曲家協会Związek Kompozytorów Polskich主催の新人作曲家コンクールKonkurs Młodych Kompozytorówにて最高の賞を三つ獲得したのだ(一等賞を一つ、二等賞を二つ)。曲は匿名で応募されていたため、三つの賞を獲得したのが一人の同じ若者だとわかった時、審査員は仰天した。実は若者はこのような事態を予想して、自分の手では一つの作品だけを書き、残りの二つは、審査時に筆跡で同一人物だとばれないように、写譜屋に書かせていたのだった。審査結果の発表後、応募要項が変更され、一作曲家につき一作品のみ応募可能となった。かくしてペンデレツキの記録はもう誰にも破られることはない。この時の受賞作はソプラノ・朗読・10の楽器のための『ストロフィStrofy』、ヤン・コハノフスキJan Kochanowskiのテキストに基づく『ダヴィデ詩編Psalmy Dawida』、オーケストラのための『放射Emanacje』であった。

「日に十数時間楽譜と向き合っていることはよくある。それは国内でも外国でも、どこにいても変わらない。」と作曲家は語る。どこにいても集中できるという。最初の妻は大学でピアノを学んでいた。ペンデレツキは楽器の音がすると集中できないので家を出て…混み合う喫茶店(ヤマ・ミハリカJama Michalika)に行った。いつも同じ席に座り、伝説によれば、ナプキンに執筆した。今日では仕事中に楽譜にお絵描きする孫たちも気にならない。たぶん一番好きなのは海辺で書くことだろう。バルト海の風景は、騒々しい『ポリモルフィアPolimorfia』を作曲した際にもそばにあり、『スターバト・マーテルStabat Mater』の閃きの元となった。

1959年から61年にかけてペンデレツキは1950年代の前衛芸術に支配的だった「トレンド」に反抗する曲を作成した。楽譜にはこの曲の演奏時間である8'37''と記されるはずだったが、曲を聴いた後、タイトルを『広島の犠牲者に捧げる哀歌』に変更した。そして広島市長に楽譜と演奏の録音を添えた手紙を送った。手紙にはこう書いた:

「広島の犠牲者が決して忘れられることなく、広島が善意ある人々の兄弟愛の象徴となることを私は深く信じています。この哀歌が私の信念の表明とならんことを。」

ペンデレツキが過度の形式主義に対する攻撃を避け、スキャンダルを見越して、タイトルを変えたと主張する者もいる。

「約9分の『哀歌』は全ての楽器の最高音域のトーン・クラスターで始まる」ヤン・トポルスキJan Topolskiは作品の解説にこう書いている。「数十秒後、一瞬の休止ののちそれは偶然性の音楽に取って代わる(中略)5分後再び稀なテクスチュアが現れるが、響きはさらに荒々しく、胴部を打つ音や、駒と緒止めの近くを弾く音がはっきりしてくる。そして最後の2分間、哀歌は再び恐ろしい魅力のトーン・クラスターとなり、そこに音の強弱、トレモロと音域の変化が追加される。」

『哀歌』の楽譜を見た指揮者や演奏家は、正気の沙汰ではないとしてこの曲の演奏を断った。最初の演奏に漕ぎ着けるまでペンデレツキは多くの交渉を重ね、構想について語り、楽譜をどう演奏すべきか説明しなければならなかった。予定されていたローマとケルン(かなり進歩的な音楽の町)での演奏は延期になった。しかし面白いことに、『哀歌』を一度演奏した音楽家たちは、今度はさらに大きな情熱と献身で持って再び演奏を行うのだ。

『哀歌』の楽譜原本を入れた郵便物が、ドイツの音楽出版社に届けられる途中で消えてしまったため、ペンデレツキは記憶を辿って再現しなければならなくなった。後になって税関がこの郵便物を止めていたことがわかった。何か秘密の計画、原爆の製造でなければワルシャワ協定の軍事機密ではないかと疑ったのである。徹底的な調査により、これがただの楽譜だということが証明され、郵便物は最終的に宛先に届けられた。この話で一番面白いのは、ペンデレツキが二つの楽譜、オリジナルと記憶で再現したものを比べたところ、寸分違わなかったことである。

ペンデレツキといえば伝統的な楽器が連想されるが、1958年から62年にかけて電子音楽にも関心を持っていた。ユゼフ・パトコフスキJózef Patkowskiの厚意により、ワルシャワのポーランドラジオ実験スタジオを使うことができたペンデレツキはシンポジウムを開催し、外国からの作曲家を呼んで、ポーランドでそれまで知られていなかった電子音楽を紹介した。

戦前のポーランドのユダヤ人についての記憶は、クレズマーのモチーフとして現れるだけでない。ペンデレツキはホロコーストにも絶えず言及している。1963年ペンデレツキはレオン・ヴェリチケルLeon Weliczkerのテキストに基づいた自然主義的ラジオ劇『死の旅団Brygada śmierci』を制作した。レオン・ヴェリチケルはゾンダーコマンド、つまりナチスが犯罪の痕跡を消すために組織した部隊の一員であった。この部隊はユダヤ人の囚人で組織され、レオン・ヴェリチケルも一員だったが、幸運にも逃亡に成功し、自らの日記を守った。

初演は一年後にワルシャワで開催された。読み手はタデウシュ・ウォムニツキTadeusz Łomnickiで、舞台には二つのスポットライトが設置された。(ミェチスワフ・トマシェフスキMieczysław Tomaszewskiの言葉を借りれば)沈黙(死)の青と叫びの赤だった。ヴェリチケルのテキストはホロコーストの最も衝撃的な証言の一つであり、徹頭徹尾冷静で、恐ろしいほど正確だ。ペンデレツキはこのテキストを変更なしで使用し、音響効果を追加した(ユゼフ・パトコフスキのもと、ポーランドラジオ実験スタジオで制作)。

ホロコーストのもう一つの重要な(そしてそれほど物議を醸していない)劇に『カディシュKadisz』がある。副題を『生きたかったウッチのアブラメク(ユダヤ人)に。ユダヤ人を救ったポーランド人に。Łódzkim Abramkom, którzy chcieli żyć. Polakom, którzy ratowali Żydów』という。

「カディシュのための作曲をしている時、東ガリツィアやウクライナ、さらに南のルーマニアで唱えられてきた祈りを参考にしました。」とペンデレツキは語る。「今は亡き友人のボリス・カルメリBoris Carmeliに指導を求めました。死ぬ前、七月中旬にもまだ私にアドバイスをくれ、アクセントを直してくれました。お祖父さんが彼に歌ったという、つまり少なくとも19世紀半ばに歌われていた様々なメロディを歌って聞かせてくれました。」

1971年ドナウエッシンゲン音楽祭Donaueschinger Musiktageで特別なオーケストラが結成され、ヨーロッパとアメリカからフリージャズ最大のスターが参加した。ペーター・ブロッツマンPeter Brotzmann、ウィレム・ブロイカーWillem Breuker、ポール・ラザフォードPaul Rutherford、ハン・ベニンクHan Bennink、テリエ・リピダルTerje Rypdal、ケニー・ホリーラーKenny Wheelerである。ポーランドを代表したのはトマシュ・スタンコTomasz Stańkoだった。指揮をしたのはドン・チェリーDon Cherryとマエストロ、ペンデレツキである。三曲が演奏され、そのうち最初の二曲(『Humus – The Life Exploring Force』とヒンディー音楽に基づく『Sita Rama Encores』)はチェリーが作曲・指揮を行い、三曲目『Actions For Free Jazz Orchestra』はペンデレツキが手がけた。

ペンデレツキは映画音楽の作曲に集中したことはないが、にもかかわらず、多くの映画で彼の曲が使われている。キューブリック監督『シャイニング』、フリードキン監督『エクソシスト』、ブラザーズ・クエイ監督『マスク』等である。ペンデレツキの音楽の可塑性に魅了された監督たちが、曲の録音を使わせて欲しいと依頼したのだ。

またポーランドラジオ実験スタジオではヴォイチェフ・イェジ・ハスWojciech Jerzy Has監督『サラゴサの写本Rękopis znaleziony w Saragossie』のための音楽を制作。不気味な電気音響の楽曲が古い音楽様式の断片と絡み合っている。

マエストロ・ペンデレツキの現在の生活を形作っているのは妻のエルジュビェタElżbietaである。ペンデレツキはエルジュビェタが10歳の時に出会っている。彼女の父親はチェリストのレオン・ソレツキLeon Soleckiで、当時駆け出しの作曲家だった若きクシシュトフとは友人だった。エルジュビェタはペンデレツキの最初の妻からピアノのレッスンを受けていた。マエストロは当時の彼女のことをほとんど覚えていないというが、エルジュビェタによれば、彼の印象は良くなかったという。

今日では、もしエルジュビェタ・ペンデレツカがいなければ、ペンデレツキの創作活動がどうなっているか、想像するのは難しい。妻は一切の事務仕事を夫に代わって取り仕切っている。文面でのやり取り、ペンデレツキが出演するコンサートの計画、また夫の80歳、85歳の誕生日にはお祝いのフェスティバルを主催した。

2002年ペンデレツキは再び物議を醸した。もっと言えば観客を二分した。2001年9月11日のテロを受けて作曲したピアノ協奏曲『復活』の公演は音楽祭ワルシャワの秋Warszawska Jesieńで観客のブーイングを浴び、多くの人が席を立った。

ペンデレツキ自身はこの楽曲の由来についてこう語っている。

「[2001年]6月に作曲に取り掛かりました。数ヶ月かけて約半分が仕上がりました。奇想曲のようなものでした。しかし9月11日以降コンセプトは完全に変わったのです。もっと暗く、重々しい曲を書こうと決めました。部分的に削り、構造上のある一点に戻り、聖歌を取り入れました。」

ペンデレツキの専門分野は作曲だけではない。彼の情熱は樹木学にも向けられている。植栽の迷路を作る専門家でもある。これまでに二つ作り、そのうち一つは例を見ない大きさだ。4000平方メートルあり、木が育った暁には出口を見つけるのは容易ではないだろう。

「昔はこういった迷路の横に塔を建て、見張りがいて、迷った者に方向を示したんです。」ペンデレツキは語る。「私もそんな塔を建てたいなと思っています。一番ご招待したいのは、私の悪口を書いた批評家の人たちですね。見張りの助けなく道を探してもらいましょう。罰としてね。煉獄みたいに。」

ペンデレツキが情熱を注ぐもう一つのものは、自分の曲(に限らない)の指揮だ。指揮業を始めたのは偶然だった。指揮者の存在はないものとして作曲され、演奏家は自分たちだけで演奏することになっていた自曲『Actions For Free Jazz Orchestra』の指揮をしたのが始まりだった。

ペンデレツキがドナウエッシンゲンにこの曲のリハーサルを聞きに来た時、演奏家たちがうまく対処できていないことがはっきりとわかった。最初はアドバイスと指針を伝えたが、公演の前日、自ら指揮台に上がり生まれて初めて自曲の指揮を行うことを決めたのだった。

「自分の作品の指揮をしている時、曲の細部を実現し、私の頭の中にある作品の理想的なイメージを形作りたい欲求に駆られます。(中略)でもわかっています、演奏中は曲の流れを形作るべきなのです。」

「サルバドールとは『世界の創造Stworzenie świata』と名付けた共同プロジェクトについて話し合っていました。ダリはテキストを書いて(電報の形でのみ送られた)、脚本を準備し、私は曲を書くことになっていました。このようなプロジェクトの展望にとても興味があったし、その上私はいつも絵画に関心がありました。ピカソやダリは私の大好きな画家です。残念ながらサルバドールの死によって私たちの計画は中断されました。」ペンデレツキはオペラ・ギャラリーGaleria Operaで開催された展覧会」『お返しの訪問。 ペンデレツキ家のダリRewizyta. Dali u Pendereckich』のオープニングパーティでこう語っている。

ペンデレツキは絶えず昔の自分の作品に戻り、小さな修正を施して曲をより洗練させている。若いアーティストもまたペンデレツキの作品を扱っている。レディオヘッドRadioheadのギタリストであるジョニー・グリーンウッドJohnny Greenwoodの『ポリモルフィアへの48のレスポンス48 Responses to Polymorphia』はペンデレツキ初期のクラシック曲に触発されて書いた作品だ。Pianohooligan (ピョトル・オジェホフスキPiotr Orzechowskiの別称)はプリペアド・ピアノを使ってペンデレツキの曲を演奏したCDを録音。マチェイ・フォルトゥナMaciej FortunaとAn On Blastはマエストロの作品のリミックスを行い、フィクション映画のための音楽を制作した。ペンデレツキは自らの音楽の解釈を興味深く聴いている。もしかしたら、次の作品に影響を与えるかもしれない。
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