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2020年02月23日21:42

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麒麟がくるの時代的背景、細川家と三好家の確執

細川晴元は堺で家臣の三好元長殺害したが、当時十歳の嫡男・三好長慶が居た。晴元はこの長慶に三好氏の継承を許し、引き続き家臣として手元に置いていた

細川晴元は、堺に擁立した室町幕府将軍・足利義維とも不和となって将軍職を追放し、細川高国らと落ち延びていた十二代将軍・足利義晴と和睦し、この頃から実質幕政を支配する管領職の第一人者として本格的に細川政権を京都に

細川晴元に将軍(堺公方)職を追放された足利義維は一向宗と対立した状態が続き、一向宗は堺公方を襲撃するなどしたが、一向一揆が大和国に侵入するに及んでも対立宗派の法華宗と協力して法華一揆を誘発させ、領内で一向宗の活動に苦慮していた近江の六角氏とも協力して山科本願寺門跡八世の顕如を攻め、一向宗の本拠地山科本願寺を焼き討ちにしている。

今度は法華衆が京都で勢力を伸ばした為に、晴元は千五百三十六年(天文五年)「天文法華の乱」と呼ぶ軍事行動を比叡山延暦寺(天台宗)僧兵や佐々木氏(近江源氏)嫡流の近江国守護職・六角氏と連合して法華衆勢力を壊滅させた。

細川晴元は管領職として七年ほど勢力を振るったが、千五百四十三年(天文十二年)になると、細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵し、その氏綱に畠山政国や遊佐長教が呼応、三年後には前将軍・足利義晴が実子・義輝に将軍職を譲った期を持って細川氏綱を支持し、細川晴元と敵対を始めた。

三好長慶は成長して智勇兼備の武将になり、細川氏の家臣として木沢長政討伐をはじめ、細川氏綱や遊佐長教らとの戦いで多くの武功を発揮し、河内など畿内十七ヶ所の代官職を与えられた晴元配下の最有力重臣にまでなっていく。

細川晴元は、敵対する前将軍・足利義晴らを近江国坂本へ追放後。細川氏綱らと戦い続けたが、臣従していた最有力重臣の三好元長の長男・三好長慶が一族の内紛で三好政長の討伐を要請して晴元に断られたので、長慶が遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、氏綱側に寝返った。

三好長慶は、戦国大名として織田信長に先んじて畿内を制し、最盛期にはその支配地域は、山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨に及んだとされており、面積では関東の北条氏に匹敵、いや関東よりも京を含む畿内の方が人口や経済的、文化的にも重要な地域に当たり、ほぼ天下人といえる勢力・権勢を誇っていた。

細川晴元は寝返った三好長慶らと摂津国江口で交戦するも敗北し、三好政長・高畠甚九郎ら多くの配下を失った晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、将軍・足利義輝を擁し、香西元成や三好政勝などの晴元党の残党や六角氏・六角義賢や畠山高政など畿内の反三好勢力の支持を受け三好長慶と争うが敗北し続け、将軍も管領も政権の体を為さない時代が続いていた中で今日の大河の出来事につながっている
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