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2019年11月23日23:17

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オンリーワンだけじゃ見えない世界

ナンバーワンにならなくてもいい。
元々特別なオンリーワン。
あの歌を知ったのは、ちょうど大学に通い始めた頃だったはず…
管理人です、こんにちは。
思い返せばあれからもう15年以上経っているんだなぁ、なんて。
自分ではそう変わらないつもりでいるのですが、時間だけは着実に進んでいくモンですね。

さて、くだんの歌を知った当時の自分は、このフレーズに痛く感激したものでした。
高校3年生まで、それなりに頑張っていた部活動でも大した結果が残せないまま引退し、次は目に見えない「ライバル」達を出し抜くためにひたすら勉強を強いられていた日々。
「1点でも多く取れ」
「1つでも順位を上げろ」
そんな雰囲気の中で、息苦しさや窮屈さを感じていたのは、自分だけでは絶対にないはず。
そんな直後に「ナンバーワンでなくていい」「元々オンリーワン」だよという歌詞です。
一世風靡なんて表現も生ぬるいってくらいの一大ムーブメントを引き起こしていたのも頷けるところです。

さて、時計の針を現在に戻します。
オンリーワン(確たる自己)を重視するというのは、間違いなく大切だと思います。
でも、この言葉が、「他人と自分は無関係。自分は自分、他人は他人。人と競争するなんて馬鹿げている」くらいに解釈されてるんじゃないかと感じることがしばしばありまして。
”オンリーワン”という言葉の捉えに、違和感を覚えることがあります。
そういうのも、「自己」を構成する要素には、他者との「比較」の中でしか見えないものがたくさん含まれていると思うのですよ。
「あなたが好きなことを教えてください」
「はい、自分は読書が好きです」
「なぜ、そう思うのですか?」
好きや嫌いや、得意や苦手は、他人なんて関係のない自己の属性だと思われがちですが、「好き」を自覚するためには、好きではない他者との比較が絶対に必要なはずです。
自分の欠点を「気が利かないところ」と話す人は、自分よりもはるかに気が利く人を知っており、それと自分を比較しているはずなんです。
だから、ナンバーワン以外はダメだとする極端な結果主義はNGでしょうが、競争や比較はオンリーワン形成のためにも必要だと思うのですよ。
順位を出さないために徒競走で全員横並びでゴールさせる、なんて話は実際に見たことはありませんが、少なくとも自分の知る限り、公立中学校の現場では「テスト結果に個人順位を公表しない」が主流となっています。
競争心を煽らないため、勉強が苦手な子に劣等感を植え付けないため、という理由らしいのですが…
オンリーワン偏狂の教育現場について、もう一つ、思うところを書きます。
欠点を欠点だと自覚しない人間に成長はないと感じています。
例えば、とても気配りができる素敵な人が身近にいて、それに比べて自分は何て気が利かない奴なんだ…と劣等感を抱くとしましょう。
劣等感は、もちろん、本人にとっては苦しい、負の感情です。
しかしこれは、「あんな風に気が付く人になりたい」という憧れの裏側の感情でもあります。
例えその時は劣等感の表側にある憧れの感情を自覚していなくても、その気持ちがある限り、その人は「気の利く人」に向かって成長しようとするはずなんです。
「どうせ俺なんか、勉強したってムダやし」と吐き捨てる生徒ほど、ちょっとした問題が解けるようになるだけで驚くほど喜びます。
教師の役割は、生徒が欠点を自覚しないように目隠しをした状態で背中を押すことなんかじゃなく、「足りない自分」に気づいて落ち込む生徒に対して、「あこがれる自分」に近づくための方途を指し示すことじゃないかと思うのです。
だから自分は教師として、30人いれば30人が難なく飛び越えられる壁ではなく、相応の努力なくして越えられない壁を準備するような姿勢で教育に当たっているのですが…
なかなか、時代に沿わないのかなぁ…と感じることが多いです。
公教育って、難しいです。

それでは、また。
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