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2019年11月22日18:57

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国語で考える4 そろばん

 つぎは読み書きそろばんの十露盤・算盤です。
人にとって知識より知恵が大切だ、というのは誰もが認めることでしょう。ですが、知恵を生むためには知識が必要です。知識と、その知識を生かす論理的な考え方が・・。
小中高校で多くの児童生徒が自問する「勉強したことが大人になってどんな役に立つのか」。その答えを最初に教えてやるのが先生です。数学が苦手。地理や歴史を暗記しなくても、スマホやパソコンで簡単に調べることができるじゃないか。学校の勉強が生きて行く上でほんとに役に立つのだろうか。
「役に立つ」のです。生きてゆく上で、人はたびたび自身による判断が必要な場面に立ちます。そのとき、間違った判断をできるだけ避けるために、論理的に考える、そのための手段が、学んで得る自分自身の考える力です。
 児童生徒の大半は、ベクトルや微分積分を知らなくても考えることは出来ると思っているでしょう。ですが人間が頭で考えるということは、小学校で教わった算数、足し算や引き算、掛け算、割り算、小数点や分数、九九の暗算が身についていて、それに日ごろ使っている言葉の力が加わることによって頭の中に論理が確立されていることなのです。
自覚していないに過ぎません。私たちの頭の中にある「自分自身の」考える力は日本語と数学、すなわち読み書きそろばんで培われたものなのです。
 数学とは、自らの考えを他者に伝えるとき、他者の頭の中に自らの頭の中と同じものを築かせることに正確を期すために必要なもの、なのです。
自身の論理を堅牢にするために必要なものでもあります。即ち、人間のものの考え方の基本を作り上げ、言葉が違っても人間すべてに共通なものの考え方の基本を模索する科学であるということです。
だから数学はあらゆる学科目の中で唯一、一から人間が作り出した科学なのです。自分自身の考えをきちんと整理するために欠かせない、ものの考え方の基本でもあるのです。そんなことを私は大学に入ってはじめて知りました。
「リーマン予想」とか、「ポアンカレ予想」などと呼ばれる有名な数学の証明課題を聞いたことはありますか?。量子論の世界などを覗くとわけが分からなくなります。数学の世界では今日もなお「新たな発見」を求めて世界中の数学者たちが日々考え続け、証明を試み続けています。
彼らは、決して間違いのない論理過程そのものを求めているのです。このことがすなわち、哲学と数学が紙一重で接している、つまりは人間の考える力の醸成なのです。私たちは数学者のエッセイが哲学者のそれより理解しやすい場面に遭遇することが多々ありますが、その理由の一端がここにあります。
大阪の米相場でデリバティブ取引を生んだ和算が、江戸の庶民の間で謎解きとして流行したのも、他国に例を見ない、平和日本の一般庶民の知的欲求の高さの証拠です。もっとも、ヨーロッパと異なりわが国では、数学は科学的真理に近づく手段ではなく、遊芸、芸事、趣味、楽しみ、の域にとどめられました。各地の神社にある算額がその代表。これも国民性で、唯一神を信じることに始まる「真理は唯一」という考え方を採らなかった民族ともいえるでしょう。

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