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2019年11月07日18:49

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「復活」

グスタフ・マーラー作曲
交響曲第2番「復活」
佐藤しのぶ(ソプラノ)
伊原直子(アルト)
二期会合唱団(合唱指揮:増井信貴)
尾高忠明指揮
東京フィルハーモニー交響楽団


かんち自身の解説

マーラーの「復活」。もういろんな音源ありますから、どれを採用していいか迷うくらいですが・・・・・

総合的に、私はこの尾高氏/東フィルのを好んでいます。あとはマゼール指揮ウィーン・フィルかな・・・・・

そんなマーラーの「復活」ですが、作品の内容から、最近は何かの節目で演奏されることが多い作品です。ある意味、ポスト・ベト9と言っていい作品となりつつあります。

この演奏も実はそんなもので、東京渋谷にある東急文化村オーチャード・ホールのこけら落とし公演をライヴで録音したものです。ですので余計な色もついておらず、かつホールを知っているエンジニアによって録音されているので臨場感も素晴らしいものになっています。できればこの音源がハイレゾで出てくれると嬉しいのですが・・・・・

そのソリストの一人が、佐藤しのぶ女史です。特に佐藤女史のいい点は低音部の響きです。これ、もぅ最高!ソプラノというと可憐な感じを受けるんですが、クラシック音楽だとむしろ図太い表現を求められることが多いため、佐藤女史のような低音がよく響くソリストは貴重だと思っていました。

最近はもう後進の指導に移られたのかなって思っていましたが、体調をわるくされていたとは・・・・・本当に残念です。もう少し生きていれば、また録音や後進を育てたろうなあと思うと、残念です。

佐藤女史の冥福を祈りながら、その魂が人々の心に「復活」されんことを願いつつ、皆さんと聴いて行きたいなと思います。今回は長いので、第2楽章と第3楽章以降の間に休憩を入れます。

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交響曲第2番ハ短調は、グスタフ・マーラーが作曲した交響曲。「復活」(Auferstehung)というタイトルが付されるのが一般的であるが、これは第5楽章で歌われるフリードリヒ・クロプシュトックの歌詞による賛歌「復活」(マーラー加筆)からとられたもので、マーラーがこの題名を正式に用いたことはない。

1888年から1894年にかけて作曲された。オルガンやバンダ(舞台外の楽隊)を含む大編成の管弦楽に加え、第4楽章と第5楽章に声楽を導入しており、立体的かつスペクタクル的な効果を発揮する。このため、純粋に演奏上の指示とは別に、別働隊の配置場所や独唱者をいつの時点でステージに招き入れるか、合唱隊をいつ起立させるかなどの演出的な要素についても指揮者の考え方が問われる。

第4楽章では、マーラーが1892年に完成した歌曲集『子供の不思議な角笛』の歌詞を採用している。つづく交響曲第3番、交響曲第4番も『子供の不思議な角笛』の歌詞を使っていることから、これらを「角笛」3部作として括ることがある。演奏時間約80分。

1888年3月、マーラーはのちの交響曲第1番となる「交響詩」を完成させると、5月にはライプツィヒ市立歌劇場の職を辞して故郷のイグラウに戻った。10月1日にはブダペストのハンガリー王立歌劇場の音楽監督に就任した。

マーラーが新たな楽章の作曲に取りかかったのはイグラウにいた6月のことである。曲は8月にほぼ完成、9月にプラハで浄書された。この楽章の自筆総譜の表紙には、「葬礼」と書かれているが、その下には削除された「交響曲ハ短調」の表示が残されており、さらに1.Satz(第1楽章)とされている。これは、この曲がはじめ交響曲の第1楽章として構想され、のちに標題が書き換えられたことを示すものである。マーラーは同じ年に『子供の不思議な角笛』に出会い、これにも作曲を開始している。

この年マーラーは、11月に「交響詩」を初演するが、失敗。マーラーは曲を改訂する必要を感じたと見られる。この間、新たな楽章はマーラーの手元に置かれたままだった。

一方、指揮においては、ワーグナー作品のハンガリー初演やモーツァルトの歌劇の上演で評価を高めたが、歌劇場新監督のツィヒ伯と対立したマーラーは、1891年3月14日、ブダペストを去ることになった。10年契約のところを2年余りで途中辞職させられたことで、マーラーは多額の補償金を得たという。

1891年3月26日、マーラーはハンブルク市立劇場の指揮者に就任した。これはブダペスト歌劇場の辞任前に打診していたものであった。マーラーは就任直後の3月29日から5月31日まで、ワーグナー作品を中心に取り上げ、3月31日の『ジークフリート』公演を聴いたハンス・フォン・ビューローは、マーラーの指揮を絶賛した。

10月、マーラーは作曲済みの第1楽章をショット社に送付し、単一楽章の交響詩として出版することを打診した。「葬礼」の標題は、このときに付けられたのではないかと考えられている。11月には、「葬礼」をピアノ演奏してビューローに聴かせる。マーラーの指揮を評価したビューローだったが、「葬礼」については、「これに比べれば、『トリスタンとイゾルデ』もハイドンの交響曲みたいなものだ」、「これが音楽だとしたら、私は音楽が全くわからないことになる」などとして、耳をふさいで露骨に拒絶を示した。ショット社からも出版を拒否され、マーラーは単一楽章としての発表を断念せざるを得なくなった。

この間、マーラーは『子供の不思議な角笛』の作曲をすすめており、1892年4月に完成、翌1893年にはオーケストラ版の総譜が完成する。このうち第7曲「原光」が、のちに交響曲の第4楽章に充当されることになる。

1893年1月にマーラーは「交響詩」を改訂(=第1交響曲第2稿)。7月にザルツブルクの近郊、アッター湖畔にあるシュタインバッハにおいて、「第2番」の第2楽章から第4楽章までを完成させた。このとき、『子供の不思議な角笛』の新たな1曲「魚に説教する聖アントニウス」も第3楽章と同じ材料に基づいて作曲されている。マーラーはこの年から夏休みをシュタインバッハで作曲に専念して過ごすようになり、また、バート・イシュルに滞在していたブラームスを訪問して知己を求めている。

同年10月、マーラーは改訂した「交響詩」に『巨人』の標題を付してハンブルクで演奏、翌1894年7月ヴァイマルで再演するが、いずれも成功しなかった。

1894年2月12日、ビューローがカイロで客死し、3月29日ハンブルクのミヒャエリス教会で葬儀が行われた。この葬儀に出席したマーラーは、オルガンと合唱によるクロプシュトックの「復活」を聴き、交響曲の終楽章の歌詞に使用することを思いつく。この時の感動をマーラーは「あたかも稲妻のようにわたくしの身体を貫き、曲の全体の形がわたくしの前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」(友人のザイドルに充てた手紙から)と書いている。 まず、テキストの最初の二連を使い、各連末尾の「ハレルヤ」は削除、三連以降は自作の歌詞を加筆した。4月に「葬礼」を小節数短縮、編成拡大などの改訂を施して第1楽章とし、6月には総譜の下書きが完成する。最終稿ができあがったのは、12月18日ハンブルクにおいてであった。

1895年3月4日、声楽の入らない第1楽章から第3楽章までをベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演。演奏会全体の指揮者はリヒャルト・シュトラウスであるが、この曲については「作曲者指揮による」との断り書きがあり、マーラーが指揮したものと見られる。その夏にはマーラーはシュタインバッハにおいて交響曲第3番の作曲に取りかかった。全曲初演は1895年12月13日、同じくマーラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による。マーラー35歳のときである。膨大な管弦楽に独唱者、合唱隊をくわえるため多額の資金を必要としたので、マーラーは私財を投じて借金をし、チケットを友人や音楽学校の生徒に売りつけるなどかなりの無理をしたが、その甲斐あって初演は大成功となった。

第1交響曲が初演された1896年3月16日の演奏会では、第1交響曲の全楽章に先立ち、「第2番」の第1楽章に再び「葬礼」の標題を付けて演奏した。「葬礼」の標題を使用したのは、これが最後と見られる。1895年初演のときのブルーノ・ワルターの感想「・・・私の回想の中で最も素晴らしい物の一つです。私は終楽章の偉大なるラッパで世の終わりを告げた後に、復活の神秘的な鳥の歌を聴いた時の息のつけぬような緊張、そこへ続く合唱の『汝よみがえれ。』に導かれる部分での深い感動は、今でも耳にはっきり残る。・・・作品の大きさ、独創さ、マーラーの個性の強さなどの印象が余りにも深く偉大であったので、この日から、彼は、作曲者として最大の地位をもって迎えられたのです。」

1897年ライプツィヒのホフマイスター社から出版された。現在一般的に流通しているのは、1970年にウニヴェルザール出版社から出版されたエルヴィン・ラッツ校訂、マーラー協会による「全集版」である。しかしこの版には「校訂ではなく改訂である」という意見も多く、演奏時にそのまま用いられることは殆ど無い。今日の演奏は古い版とラッツ校訂版の折衷でなされることが多い。他の交響曲の演奏においてはほとんどがラッツ校訂版に切り替わっているのに対し、この曲においては版問題の混乱が未だに残っている状況である。下記のキャプラン版はラッツ校訂版の行き過ぎを元に戻したところが多く、この混乱を終息させてくれるかも知れない。

アメリカの経済誌の社長ギルバート・キャプラン(1942-2016)がマーラーの自筆譜を買い取り、音楽学者レナート・シュトルク・フォイトの協力を得て校訂、2005年に出版したものが「キャプラン版」として知られる。キャプランが買い取ったマーラーの自筆譜は1894年の初稿で、マーラーが1911年に没した後、アルマ・マーラー、ウィレム・メンゲルベルク、メンゲルベルク財団、キャプランと渡ったものである。キャプランは校訂出版に先立ち、この自筆譜を写真譜としても出版していた。キャプランは、2002年にこの校訂譜をもとにウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して録音している。

なお、キャプランは1965年にレオポルド・ストコフスキーが指揮したこの曲を聴いて感動し、自らこの曲を指揮するために本格的な指揮を勉強、1983年以降、世界中のオーケストラを指揮してこの曲のみ50回以上上演している。日本でも1984年4月に新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。1987年にはロンドン交響楽団とこの曲を録音、1996年にはザルツブルク音楽祭でフィルハーモニア管弦楽団を指揮して演奏するなど、「復活」専門の指揮者として知られる。

後にマーラーは、全曲について標題的な説明を残しており、以下に示す。

第1楽章 私の第1交響曲での英雄を墓に横たえ、その生涯を曇りのない鏡で、いわば高められた位置から映すのである。同時に、この楽章は、大きな問題を表明している。すなわち、いかなる目的のために汝は生まれてきたかということである。……この解答を私は終楽章で与える。
第2楽章 過去の回想……英雄の過ぎ去った生涯からの純粋で汚れのない太陽の光線。
第3楽章 前の楽章の物足りないような夢から覚め、再び生活の喧噪のなかに戻ると、人生の絶え間ない流れが恐ろしさをもって君たちに迫ってくることがよくある。それは、ちょうど君たちが外部の暗いところから音楽が聴き取れなくなるような距離で眺めたときの、明るく照らされた舞踏場の踊り手たちが揺れ動くのにも似ている。人生は無感覚で君たちの前に現れ、君たちが嫌悪の叫び声を上げて起きあがることのよくある悪夢にも似ている……。
第4楽章 単純な信仰の壮快な次のような歌が聞こえてくる。私は神のようになり、神の元へと戻ってゆくであろう。
第5楽章 荒野に次のような声が響いてくる。あらゆる人生の終末はきた。……最後の審判の日が近づいている。大地は震え、墓は開き、死者が立ち上がり、行進は永久に進んでゆく。この地上の権力者もつまらぬ者も-王も乞食も-進んでゆく。偉大なる声が響いてくる。啓示のトランペットが叫ぶ。そして恐ろしい静寂のまっただ中で、地上の生活の最後のおののく姿を示すかのように、夜鶯を遠くの方で聴く。柔らかに、聖者たちと天上の者たちの合唱が次のように歌う。「復活せよ。復活せよ。汝許されるであろう。」そして、神の栄光が現れる。不思議な柔和な光がわれわれの心の奥底に透徹してくる。……すべてが黙し、幸福である。そして、見よ。そこにはなんの裁判もなく、罪ある人も正しい人も、権力も卑屈もなく、罰も報いもない。……愛の万能の感情がわれわれを至福なものへと浄化する。

交響曲第2番の作曲期間は、前作交響曲第1番が「交響詩」の改訂を経て交響曲として発表されるまでの1888年から1896年までの期間にちょうど入り込んでいる。マーラーは、最初に書いた楽章を「交響曲ハ短調」の第1楽章として構想していた。作曲された1888年当時、後の第1交響曲は「交響詩」として考えられていたことから、「ハ短調交響曲」はマーラーの最初の交響曲となるべきものだった。しかし、第1楽章が書かれ、第2楽章のスケッチに取りかかったところで、作曲は5年間中断された。一時、第1楽章を単一楽章「葬礼」として発表することを考えたがうまく行かず、その後再び交響曲として当初の構想に立ち戻ったということになる。この背景には、「交響詩」の初演失敗、さらにはそれにつづく改訂上演の失敗があると考えられる。

最終楽章で歌詞として使用されたフリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックの「復活」賛歌は、イエス・キリストの復活 Auferstehung を歌ったものである。しかし、マーラーがこの歌詞を採用することを思いついたのは、作曲の経緯のなかでも最終段階であり、「復活」を標題としたことはない。

なぜマーラーが第1楽章に「葬礼」という標題をつけたかについては、いくつかの説がある。ひとつには、マーラー自身が書いた解説のなかで、先立つ交響曲第1番の英雄の葬礼であると述べているものである。これに関して、上演失敗に終わった『巨人』を葬り去る意思の表れという解釈もある。また、1889年2月に父ベルンハルト、9月に妹レオポルディーネ、10月に母マリーと3人の肉親が死去しており、マーラーは自分自身の死を考えずにはおれなかったという指摘もある。ただし、この楽章が作曲されたのは1888年で肉親の死より早く、「葬礼」の標題を与えたのはおそらく1891年であり、「交響詩」に『巨人』の標題が付けられた1894年より早い。したがって、これらは後付けの説明ということもできる。

このほか、ポーランドの国民的詩人アダム・ミツキェヴィチの劇詩をジークフリート・リピナーが1887年に翻訳出版した『葬礼』に影響を受けたという指摘がある。リピナーが翻訳したミツキェヴィチの詩編は原題を“Dziady”といい、1823年に出版された。“Dziady”は「父祖たち」を意味し、『父祖の祭り』と訳される。これはリトアニアやプロイセン地方に伝わる、起源をキリスト教以前にさかのぼる、先祖を祝う祭りを題材としたものである。

リピナーはドイツ語への翻訳に当たり、この標題に“Todtenfeier”(現代ドイツ語では“Totenfeier”)すなわち『葬礼』という言葉を当てた。リピナーはマーラーの親友で、マーラーは18歳のころからリピナーに感化を受けてニーチェの思想を知ったといわれる。マーラーは続く交響曲第3番で、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の詩を歌詞として用いている。ニーチェの「永劫回帰」とは異なるが通じるところもある、生と死の輪廻の思想を『葬礼』に感じ取ったことが、作曲のきっかけだったというものである。マーラーが終楽章でクロプシュトックの歌詞に追加した自作の「再び生きるために死ぬのだ」という言葉は、このことを裏付けていると考えられる。
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