寝れない、不眠症勃発だ。
なのでいつも通り脳内垂れ流しを行おう。
この世界は3次元なわけで、奥行きを感じることができる
何もこれは物体に限ったことではなく
日々行われる生活の営みも多面的、立体的なものだ。
だから多角的な視野を持つことができたらどれだけリスクは減るだろうか
しかし、残念ながら、人は「自分が見えている景色」しか見えない。
奥行きを感じるものの、一枚のディスプレイに映った映像の如くだ。
こういう話すると、シミュレーション仮説に行ってしまいそうなのだけど、我慢して……
なので、裏側は同時に見ることができない。
これが物体であるならものは簡単で、裏に移動すればいい。
しかし、現在進行形で行われている出来事はそうはいかない
なぜなら、裏に回った時点で表は既に別のものに変化してしまっているからだ。
つまり、人は自分の見ている景色こそがメインなのだ。
じゃあ裏側はどうやって見るのか?
うん、見えないんだろうと思う。
この辺り昔哲学書にあるんじゃないかなって読んでみたことがある。でも気がついた。
「哲学こそ時代と状況によって全く変わるじゃないか」と
なので、興味がなくなってしまった。
その辺あれよね、フーコーの監獄の誕生―監視と処罰に出てくる
肉体刑と自由刑の辺りに共感するところあるのよね
「監獄の誕生―監視と処罰」挿絵がグロいので、読むとき注意な本でした。ちゃんとは読んでませんけど
ルイ16世だっけ?を襲った男が処刑場で拷問されてる絵ですね。
生きたまま腸をウインチで引きずり出してる絵のやつ
もちろん面白いし、真実だなぁと思うことは沢山あって
ニーチェの「弱者こそ悪なり(ルサンチマン)」とかさ
本来の意味は深いんだろうけど、現在においても、情報弱者が愚かな行為をとることは日々ニュースで流れてる事柄ですよね。
スマートフォンが出てきて、情報取得って凄くハードル下がってますよね、なのに、それを知らずにしょうもないことをする
まぁ、それで後の祭りですよね。
煽り運転とか、バイトテロとか、教師間のいじめとか。
話戻すと、流動する事象の裏側は見れない
ならどうするか?
経験に裏打ちされた「感」なんじゃないかと最近思ってます。
Aさんの見てる「赤」と自分の見てる「赤」が同じであるということは、証明できないわけで
Aさんにとって最善で、紛れもなく事実であったとしても
それは自分の現実や事実、真実ではないかも知れない
それを信じ込むのは危険じゃないかと。疑うべきだと。
よって、愚直なまでに自分の見たモノ、感じたモノを
貫いていくことこそ歩むべきあり方なのかなと最近思うわけですよ。
以前はとりあえずアドバイスが欲しいって考えてたこともあったんだけど、アドバイスって、他人視点なうえ、玉石混合なわけじゃないですか
ギターやっててアドバイスもらって、信じて必死でやったのに
学校行ったら授業で全否定とか、まぁあったんですよ。
今思うとアドバイス自体が足枷になってたなと。
例えば、知識。明文化できる知識などは文化の継承、ミームって言うんでかね?なんで、全然ありなんですけど
アドバイスとメソッドはまた別なモノだと思うんですよ
メソッドは理論的に体系化されたモノで
過去の成果を積み上げたモノなので、有用なわけです
投資家のウォーレン・バフェットがチェリーコーク飲み続けるように、ビル・ゲイツがマックのフィッシュバーガー食べ続けるように、ブレずに自分の意思で生きれたら楽しいだろうなと思う、41歳の誕生日でした、はい。
ちなみに言葉や意味の使い方が間違ってる可能性あるので、その辺はご容赦(‘ω’)
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