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2019年10月23日08:17

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口よりも手のほうがお喋りな、ゲルニカの夜、そして…

楽器奏者を観ていて時々、(この人達は言語を使わずに音階で気持ちや心を表している…)と、そう感じる時がある。

フォト


私は多分、そのクチだ。

普段から、口から音声を、あまり発しない。

言語野とか言語中枢の問題ではなく、生活史のほうを辿れば自分でよく分かる。

他人から何と言われようが、そもそもの原因や理由を自分で理解し納得していれば、他人からの評は問題にならない。



ゲルニカの夜を、まるで昔に死んだ弟のメッセージのようにも感じるのは、テレビでライヴ観賞するにあたり、強ち間違った態度ではない筈だ。

生前にまだ幼かった弟と見に行った映画館での一時を、私は幾度となく思い出す。

そうしてゲルニカの夜を聴いて、幼かった日の弟を思い出す。

弟が、私の人生から、脆くも千切れてしまった。

私の視点ではなく、弟の視点、それがゲルニカの夜に有るようにも思えて、そうして私は僅かに二十年余りの短い生を終えた弟の死という心の痛手が慰撫される。

素直にピカソの描いた絵画のメッセージを思い浮かべもするが、モナ・リザの肖像画の二重性にも似て、弟の存在は私の視界を変わらず…。

ピカソのゲルニカ…、BUCK-TICKのゲルニカの夜…

御免よ、僕は雨ふり…



弟について、話し合う相手は、私には存在していない。

誰もが傷付いていた、話せば、思い出せば、また誰かの傷口が開く…。

そう思えば、何も話さない。






そうして今、舞台では胎内回帰から更に時は進み、鼓動が演奏されている。

私には、過去と現在を繋ぐ、BUCK-TICKなのだった。




♪生きていたいと思う 愛されてるなら

♪生きていたいと願う 愛されてるなら

♪ごめんなさい ありがとう
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