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2019年10月03日21:35

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2007年10月7日・・・12年経つんですね

2007年10月7日!
丸12年経つんですね!

2007年7月29日 鈴鹿8耐で!
フォト



2007年9月30日 全日本岡山で!
フォト

フォト



そして、10月7日・・・

10月4日からタイGPも始まります!
事故無く、素敵なレースになるよう、見守っててね!
ノリック!(๑・̑◡・̑๑)


2年前の記事を少し、コピーさせて戴きます!



★イタリアの有名2輪レース・ジャーナリスト、ニコ・チェレギーニ氏の2017年10月のコラム。


《皆さん、こんにちは!
今から10年前、2007年10月7日、全オートバイファンの魂を揺さぶった日本人レーサーが逝ってしまった。
ノリフミ・アベのことだ。
イタリアに訃報が届いたのは、事故の翌日だった。
カワサキ市の4車線道路をオートバイ走行中、突然、Uターンしてきたトラックに轢かれてしまったのだ。
アベはブレーキをかけることさえできなかったと言う。
おそらく、若い読者の皆さんにとっては、初めて目にする名前だろうか。しかし、アベは破格ライダーだったのだ。
1993年、わずか18才で日本選手権500ccクラスでチャンピオンとなり、その翌年の鈴鹿GPでは真っ赤なホンダ機を駆り、
ワイルドカードデビューを果たした。そして、あのシュワンツやドゥーハンらと競り合い、結局、レース終盤に濡れた
路面で転倒リタイヤしてしまう。
当時、15才だったヴァレンティーノ(ロッシ)は地元タヴッリャで、私がTVでやっていたモトGPニュースをいつも
見ていたそうで、この日本人ライダーに…スラリと背が高く、抜け目のない印象を振りまき、長い髪をヘルメット
からなびかせていたアベに憧れ、みずからを『ロッシフミ』と名乗ることにしたのだとか。

日本と言う国はロードレース世界選手権に素晴らしいマシンを送り出しているが、しかし、ライダーには恵まれていない。
2010年のミザノGPではトミザワ(ショーヤ)が他のマシンに轢かれて亡くなり、2003年の鈴鹿GPではカトウ(ダイジロウ)が
不可思議な転倒事故で亡くなっている。
1995年のSBKアッセン戦ではナガイ(ヤストモ)が、そして、その2年前のヘレス戦ではワカイ(ノブユキ)が観客を避け
ようとしてピットレーンで転倒し、亡くなった。

では、さらに有名な日本人ライダーを挙げてみよう。
多くの日本人ライダーらが世界チャンピオンになっている。まずは1977年にカタヤマ(タカズミ)、そして、サカタ(カズト)、
アオキ(ハルチカ)、ハラダ(テツヤ)。そして、先程あげたカトウに、最後が2009年のアオヤマ(ヒロシ)だ。
ちなみにノリフミ・アベも500ccクラスでタイトルを取れていたはずだし、日本が最も期待していた選手だったのだ。
まさに将来を嘱望された第1号ライダーだった。90年代初頭にホンダHRCを率いていたタケオ・フクイが、どれだけアベに夢中
だったかは良く覚えている。フクダ氏が、こう言っていたことがあるのだ。
「ホンダのライダー養成所に17才のライダーがいるんだが、これがまた実に良い選手なんだよ。賢い若者でね、もう500ccに
乗ってるんだが、いずれ皆さんもアベと言う名前を耳にするでしょうね。」》

ノリックことアベ・ノリフミに何が起きたのか詳しくは知らないが、94年にホンダ機での鈴鹿GPデビュー後、急遽、同シーズン
終盤にケニー・ロバーツ率いるヤマハへ移籍したのだ。
もしかしたらホンダはかつてそうしていたように世界選手権へのマージンを取ろうとしていたのか、もしくは才能が枯渇して
しまうことを恐れたのか。
とにかく、アベは1996年、紅白のYZR機で最高峰レース優勝を遂げた(1999/2000年にも1勝ずつあげている)。
その後、ウェイン・レイニーのチームへ、そして、ルイス・ダンティンのチームへと移った後、SBKに参戦したのだが、残念ながら
ホンダとはいかなる関係も持つことができず、あれだけ期待されていたにも関わらず、アベがビッグ・チャンピオンになることはなかった。

アベと言えば、その勝利もさることながら、あの笑顔が、そして、抜け目のない瞳、独特のライディングが…高速コーナーでも
胴体を起こし、カウルの上に高々とヘルメットが見えていた姿が我々の胸に残っている。
ヴァレンティーノはいまやロッシフミとは名乗らなくなったが、アベのことを忘れてはいない。2008年シーズン末には8回目の
タイトルを獲得し、アベに捧げていたのだから。
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