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2019年09月30日20:01

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「トロッコ問題」が子どもたちにもたらす真実

■「トロッコ問題」授業で謝罪
(毎日新聞 - 2019年09月29日 11:52)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5806718

■実は奥深い「トロッコ問題」でサバイブ力を身につける
(ダ・ヴィンチニュース - 2019年09月27日 17:42)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=140&from=diary&id=5804811

 「トロッコ問題」そのものは、結構、道徳や特別授業などで一般的に行われているものだろう。
 そもそもは人間のいざというときの倫理観を「思考実験」するための設問なので、「教育目的の授業」として展開させるためには、別の指針が必要となる。
 世の中には、正解を求めることができない厄介な事案、難問はいくらでもある。それでも「決断」を迫られることはままあって、その際、我々は果たして何らかの「覚悟」を示せるのかどうか。トロッコ問題の「授業」に何らかの効果があるとすれば、まさしくその一点に尽きるだろう。そうした問題は日常的に転がっているものだから、小・中学生には早すぎる、という意見は決して妥当ではない。生徒が不安を感じるのは当然で、逆に感じない方が心配になる。何も考えずに即断してしまう神経の方がよっぽど怖い。
 悩んで悩んで、一応の結論を出しても、やはり不安は残る――それくらい考えないと、物事はよりよい方向には決して動いてはいかない。我々「大人」は、そうした経験を腐るほどしてきたはずだ。

 だから、記事にある「選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙い」という意図には疑問を感じざるを得ないのである。それは限定条件の下でなされているはずのこの思考実験に、「別の条件」を加えるということではないのか。
 自由に別条件を加えてよいのであるならば、「一人が家族や恋人で、五人が赤の他人だったら」なんてことも考えたくなる。「太った男を線路上に突き落としたらトロッコを止められる」という付加条件を足すと、回答に変化が起きるのもそのためだ。ネットを散策すると「両者を助ける手段」もいろいろと考察されているが、全て「別条件」を付加する必要が生じている。それでは思考実験にはならない。

 本来、「トロッコ問題」には、二つの選択肢しかないのだ。引き込み線を切り替えて、一人を犠牲にするか、あるいは「何もしない」か。そのように限定すると、「数の倫理」が優先されて、「一人を犠牲にする」という回答をする人の方が多くなることが、これまでの様々な調査で分かっている。「迷える一匹の羊をこそ助けよ」と説くキリスト教圏のアンケートでも同様の回答が得られるというから、これはかなり普遍的な人間の思考なのだろう。
 しかし、「行動心理」の観点でとらえた場合、「一人を犠牲にする」と答えた人が、果たして本当にそのように行動するものなのか、これにも疑問が生じるのである。
 現実には、目の前の状況にどう対処すればよいか決断できないままに――状況を看過してしまうのではないか――。
 世間の諸問題が「先送り」されまくる現実を見る限り、実際にそうとしか思えないのである。政治改革がまるで進まない現状を、我々はいくらでも挙げることができる。
 いじめ問題だってそうだ。目の前で誰かがいじめられているのに、どうして誰も助けようとはしないのか。関わろうともしないのか。「いじめられる子を助けると、今度は自分がいじめられるようになるから」というのは「動かなかった」ことについての後付けの言い訳である。そもそも「問題に関わる」ことで、自身に「責任」が生じることを、みんな忌避しているのではないか。
 これには「大きな改革を好まない」日本人の保守的な精神も深く関連しているだろう。「言い出しっぺが損をする」という現象も、我々の経験則となってしまっている。ひとつ物事を変革させようとすれば、周囲は寄ってたかって足を引っ張り、その改革を阻止しようとする。改革に数々の解決しなければならない問題が付随してきて大変だからではない。「変革」それ自体が、「保守派」や「現状維持派」にとっては罪悪なのだ。ここに「理屈」は存在してはいない。「ダメだからダメ」なのである。

 五人を殺すか、一人を殺すか、どちらかが正解ということはない。けれども我々はともすれば「五人を犠牲にする」ことを「無責任」に選択している。問題を看過することだって、消極的ではあっても、実際にはその問題に関わっていることになる――せめてそういう認識を持つ必要があるのではないか。
 トロッコ問題を学校でのいじめ問題に置き換えたら、子供たちはどう答えるだろうかね。30人のクラスがある。一人の子が、五人のグループにいじめられている。残り24人は状況を知ってはいるが、ずっと見て見ぬふりをしている。問題が発覚して、何らかの処遇を考えるとして、子供たちはどんな回答を考えるだろうか。
 いじめた五人だけを処罰する? 見て見ぬふりの24人の責任は? それとも被害者の一人だけを転校させて、事件を「なかったこと」にするのか? 現実の学校がどのような対処を取っているかは言わずもがなであろう。

 「数の論理」だけに従うのならば、回答は決まっている。なのに、その回答を我々は簡単には選べない。現実は思考実験に留まらず、数々の「別の条件」に左右され、複雑化して、我々はますます「責任」を引き受ける「覚悟」から逃避したくなってしまう。
 逆を言えば、我々はそれだけ「責任」の「重さ」を自覚しているということでもある。社会人として生きること――そこで背負わされているものは、まさしく「誰かの命」だということだ。その真実から「逃げないこと」――「トロッコ問題」を学校から遠ざけるということは、教育の放棄に他ならないだろう。夢と希望だけを教えて、上っ面の美しさだけを求めるような偽善的な子どもを育てたって仕方がない。
 子どもたちには早い段階で、社会の理不尽と、人間として生きることの重さに直面させる思考実験も必要だろうと思うのである。
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