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2019年05月14日12:56

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雑感

「違和感には気づいておりました」「反省しています」 藤崎マーケット、読売テレビ「ten.」での“性別確認”コーナーについて謝罪
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=5618039

笑いをとるのに必死になるほど手段を選ばなくなる様子はよく見る。緊張と緩和を生み出す手段としての「差別」や「ハラスメント」の使い方を考えなきゃいけないフェーズに入ったと実感させられる一件。それもお笑いのメッカ関西で起こったことに考えさせられるものがある。

極論めいたことしか言えないけども、ぼくたちはこの世界に生きている限り時間からは逃れられない。そして各々の主観から見た時間の流れには「速い矢印左右遅い」がある。
「正しさ」は「遅い」だ。つっこんで言うと「理念上の正しさ」のほうがいいかもしれない。
すぐに変わってもいい価値観に正しさなんてない。
原理的に「正しさ」はそこに留まり続けようとするものだ。

翻って「お笑い」とは「緊張と緩和」であり、このシビアな世界でよりよく生きようとする(緊張)世界観(価値観)に、オルタナティブな世界観(緩和)を人の主観にもたらそうとする運動そのものだと思っている。すなわち「速い」だ。万人に居場所を提供するかのように価値観を破壊し構築し。また破壊する運動の中にいる「お笑い」はまさに「速い」のだ。
そしてその「速さ」ゆえに、「強者」の道具となりやすいのだと思う。

はっきりと言うと弱者は「速さ」についていけない。それはもうあらゆる意味で、場面でそうだ。直感的にそういうものだ。自明じゃないか。だから野放しの「お笑い」は「弱肉強食」という「真理的な正しさ」にすぐに絡め取られてしまう。

なぜわざわざ「弱肉強食」を「真理的な正しさ」と言ったのか。それは「理念的な正しさ」と別けて考えたいからだ。
古代、「弱肉強食」は正義だったという。しかし「古い強者」から「新たな強者」がとって代わることを繰り返していくうちに「弱者」の側に変化が起きた。「理念上の正しさ」を生み出したからだ。その「理念上の正しさ」はやがて世界を規定してしまうくらいにはなった。そしていろんな主義の国が生まれるなか。グローバルな資本主義社会になって。今ここ

「理念上の正しさ」は強者の振るまい方を変質させるくらいの力はあるっぽい
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