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2019年06月19日20:42

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下賤芸能教団の「教主」って何?

 実は今日は疲れている。 なので早く寝たい。

ですが きょうも すこしは「下賤芸能教団」の中身を またすこし すすめておくべく教主メッセをつぶやいておいた。

「教主ってなんだろう」ということ自体が 今日先ほど書いてテーマだった。

それを書き終えてから、ふと思いついたのですが、 それをそのままこちらにコピペするだけなら  時間はほとんどかからない。

早く寝れる^^。

少しは 宣伝になる。 少しは 人目に触れる。 少しは理解者が出てくる可能性がある、と
いうことで 今日から 下賤芸能教団のトピやメッセ内容を、 そのままこちらにコピペしていってみることにしたのだ。

今日のテーマは書きましたように 先ほど書いた 教主自体の意味を問うメッセである

↓↓↓

教主メッセ) 教主って何だろう?(読み切り)

この教団には上下関係は無い。  それに 善人と悪人とさへ区別したりなんかしない。

では 「教主」の私は、どうなのだろうか? 

少しは他の人たちより上の立場なのだろうか?

それとも みんなと同じに、ただの友達なのだろうか?


別に偉いわけでも何でもない。  でも このように考えてほしいのだ。

命がかかった 山岳などでのチームワークでは、 「リーダーとフォロアーの形」は 絶対的に必要だと言われる。

そして リーダーは けして二分されてはならない存在だということも 絶対的な法則なのだ。


リーダーのいう事には フォロアーは 例え その道は間違いだし 命の危険につながると思えても そしてまた
意見ははっきり言ったとしても やはり最終的には リーダーの決断に 誰もが従う。

崖っぷちが すぐ前に迫っているかもしれない 危険と隣り合わせの、様々なその他の危険な要素もある厳しい山道においては、 そうでなければ 遭難の確率は とても高くなってしまうのだというのだ。

間違っていても なおリーダーは 決断し その道を一度は進んでみる。  もちろん用心しながら、 そして考えた末に選んだ道をである。

そうしておいて、 いざ 危険を知り 急いで引き返すしかなくる時にも そのチームは それを失敗だったとは考えない。

ひとつ危険を乗り越えることが出来たと考えるのだ。

それが 命がかかった時の リーダーの一本化のありかたであり、 リーダーの役割であり またフォロアーのあるべき態度、あるべき心の在り方なのだ。


ほんとうに そのほうが はるかに 命が助かる確率が大きくなるのだというのだ。


これを、すべての 人生におけるチームの在り方と考える必要はない。

しかし リーダーにはリーダーの権限と役割があり、 その重い責任のありかがあることは、同じなのだ。


あくまで リーダーとフォロアーに 上下の差別があるわけではない。

それでありながら、 「リーダーの決断」には 従うのが その在り方なのだ。

その他の場では、普段は、ただの友達同士だ。

リーダーとは そのような「役割」なのだ。 「役割行為」の主なのだ。



では、 先生という立場には、 生徒との間に上下関係はあるのだろうか?

ある意味 先生と生徒とも友達どうしでもある。

おなじ、人生を生きていて  先生とは その道、その科目、その学習の場において  生徒たちより先に その物事を知っている その道の生徒(先生も まだまだその奥の深いその道において 生徒でもある)だけのことなのだから。

「先の生徒」「先に少し進んでいる生徒」それを《「先」「生」》と呼ぶのだと考えると解りやすいかと思う。

しかし その限りにおいては、 先生は 時には厳しく教える義務も負った人間であり、  時に 真の先生とは、師の影を踏まずと言われるほどの権限を自らと生徒に課す時すらある。

そこにおいては 上下関係は、  はっきり言ってあるのだ。

上下関係とある場合と そうでない場合とがあり、 使い分けられる先生が本物の先生だと言える。

宗教においては どうなのか?

絶対を立てる宗教の場合は 教祖がいて、教祖も絶対的教師の役割を担うことになるのだろうと思う。


しかし、私たちのような
 
 人生そのものを信じる道 信じたい人達の集まる集団の道 そのメッセを 説く道、

ここにおいて、 ではでは、 いよいよその「教主」とは いったい何なのだろう?


この教団を開始し、 この教団のリーダーとして その責任を背負い、  歴史上 ほかにない宗教的立場を 皆に理解させ、 批判の矢面に立ち、  なにがあっても どこまでも その責務を全うしてゆく立場、

それは時として はっきり上の立場の教師であり先生である立場をも
必須とするだろう。

また リーダーとして、 時には誰の意見も聞かずに はっきりと独断して進んでゆく場面もあるだろう。

しかし すべては、 あくまで 他の絶対的宗教とは違った立場であり、 その意味では  やはり どこまで行っても  「教主」とは友達という存在なのだ。


相対的であれば それがどんな斬新で ほかにない思想と掲げていても ほかにない理想を掲げていても ほかにない実践を展開していても、ほかにない理念や哲学を語っていたとしても、 それでも、 私
よりも 人生において あなたの方が先輩の部分はあるわけで あなたの方が「先生」にふさわしい場もたくさん出てくるはずなのだ。

でありつつ、 もうお解りだと思うが、     この教団のリーダーはそれを開始した その決断をした「教主」の私だけなのだ。

わたしだけが、その責任のすべてを背負う。

この教団コミュには、 「教主を批判するトピ」もある(すでに立ててあります)。

相対的であれば こちらが学ぶ時もあるし、こちらが間違えるときもあるし、気が付かないことに気が付かされることもあるはず、 私たちの場合は 教主は 絶対ではないのだ。

でありつつ 教主は あらゆる批判、あらゆる非難、あらゆる問題提起 あらゆる疑問、あらゆる別な考え などなどに、  どれだけ 対応して 創造的に さらに前向きに かじを取ってゆけるかが問われるのであり、それだけなのであり、

そこに優柔不断さがあり あっちに行ったりこっちに行ったり揺れ動いてしまうというわけではないことを知っておいてほしいのだ。


意見は 最大限に尊重する。 しかし それを生かす独断こそが ここでの「教主」の力量なのであり 必ずしもそれを採用するということではない事、無い時があるという事をも憶えておいてほしい。

どこまでも、 どこまでも  私は、あなたのただの友達だ。

それこそが 下賤芸能教団の意味ですらある。

であって、 すべての矢面に立つ「教主」の意味も どうか ここにて理解してほしい。



今現在のわたしの生業の仕事は、かなりきつい。  72歳の老人の私にはつらい部分もある。   それが 今疲労へとつながっていて、今日は出来るだけ早く寝たい。

でありつつ、 それでも この道の責任故 少しづつ 少しづつ 今日も 中身の説明を 書き加えている「教主」であることを どうか理解してほしい。

登録とか  入会儀礼、入信儀礼とかが必要な教団ではない。 メッセをむしろ盗んでいっていい教団なのだ。  著作権もいらない。

どんどん学んでいただけるなら コピーしてアウトプットしようとすべて自由だ。

なので、できれば あなたなりに、この実直な「教主」とその立場をを応援してほしい。

今日は以上です。


よろしくお願いいたします。


▲▲▲


こんな具合に 今は ともかく  世界一の量と質のコミュ内容を用意しておくべく奮闘中なのです。

みなさま どうか よろしくお願いします( ^)o(^ )(^^♪(^^)/。

以上です。
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