「他人の喜びを求めて生きよう」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19875 〈写真入り記事〉
フランスの小説家ジョルジュ・ベルナノス[Georges Bernanos (1888-1948)]は、『他人の喜びの中に、自分の喜びを見出すことができること。そこに幸福の秘密がある。』と言いました。
通常、自分の喜びに喜びを見出すために、お金持ちになり、豪邸に住み、高級車に乗り、豊かな生活をしている人が幸せだと考えるものです。
権力があり、有名人として生きることが幸せだと考えるものです。
しかし、実際は、成功者ほど孤独であり、物質的には豊かなのに心がすさんでいる人が多いものです。
「貧しい方がいい!」「うまくいかない方がいい!」というのではありません。
大切なことは、どんな状況の中にあっても、自分の喜びだけをを追求するのではなく、「他人の喜びの中に喜びを見出そうとしているか」です。
私は牧師として、他人が幸せを願いながら神の言葉を語ります。人々が喜んでいる姿を見ることで、喜びを感じます。
どんな人でも、他人の喜びの中に喜びを見出そうとしたら、間違いなく幸せになることができます。
他人の喜びの中に喜びを見出せないと、そこに忍び込んでくる感情は、「ねたみ」「嫉妬」「ジェラシー」です。
自分の自己実現や幸せを願っていても、世の中、上には上があります。
自分よりうまくいっている人はいくらでもあります。それを知った途端、ねたみを感じ、惨めな気持ちになり、不幸を感じます。
その時、「自分の心の貧しさに原因がある」と気付ける人には希望があります。
しかし、その不幸と惨めさの原因は、人や状況のせいだと考えるならドツボにはまってしまいます。
私は、相手を嫌ったり、否定したり、非難したり、いじわるをしたり、悪意を持つ人の多くが、心の中にねたみが隠されていることがわかりました。
その人の持っている自由さ、豊かさ、人から受ける賞賛、富や栄誉など、自分がほしいと思っているものを得ている人に対してねたんでいるのです。
もし、「よかったね!」と一緒に喜んであげるなら、心の幸せは失われることがありません。
さらに、もっと積極的に、他人の喜びのために仕えるならば、最上の喜びを感じられます。
イエス様は、他人の喜びに仕えた人です。人が喜びに満たされるために、喜びを妨げてる罪という不幸の原因を十字架で身代わりに背負って死なれました。
罪を赦し、健康と祝福を与え、天国のパスポートと永遠の命を下さいました。
イエス様の人生は、すべてが他人の喜びのために使われました。
私たちは、誰かの身代わりに死んだり、十字架にかかることはできませんが、そのような思いで生きることはできます。
天国と地獄は、死んだ後に行く場所ですが、この世の中でも先取りすることができます。
他人の喜びのために生きている人の心は天国を味わえます。
自分の喜びだけを追求するならば、「ねたみ」の感情が逃れることができないので、繰り返し、地獄に突き落とされたような不幸を経験します。
人の心の幸・不幸は、他人の喜びを求めて生きるか、自分の喜びだけを求めて生きるかに分かれ目があります。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)
神はあなたを愛しています。そして、神はあなたの喜ぶことを喜んでおられます。
神の愛はあなたの心をいやし、喜びで溢れさせて下さいます。
神の愛に感動した人は、今度は、誰かの喜びのために生きていきたいと思うようになるものです。
そこに天国の喜びがあり、天国に通じる人生があるのです。
ログインしてコメントを確認・投稿する