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2019年01月23日23:41

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射日神話を調べて

調べてる途中ですが分かる範囲まで書きます。



・射日神話とは?
 地上に複数(10〜3)の太陽が現れた時、英雄または神の使いが弓(または槍)で射落とす神話である。自分が確認した中で日本を含めシベリア沿海部からベトナムあたりまで広く存在する神話である。

 なお神話が派生や発展をし『太陽の中にいる三足烏を射落とす』や射落とした後、怯えた太陽が隠れて地上が闇に覆われる(射日神話+招日神話)』さらに『太陽または太陽の象徴人格が隠れて闇に覆われる』という独立体型もあった。面白い事に『三足烏が独立して太陽神や英雄の勝利を導く』というスピンオフも存在していた。



・射日神話の神事=オビシャ神事 なのか?
調べていく内に「オビシャ神事」という言葉をみかけたので記しておく。
オビシャ神事とは、正月に徒歩(かち)で弓を射て、その結果で1年の豊凶を占う神事。神事後に飲食または酒や餅などを配るところもある。

吉田武彦著『古代史の未来』(未読)によると、このオビシャ神事はアムール川流域のウルチ族の「空の三つの太陽のうち二つを男女が一つずつ石を投げて落とした」という神話に関係していて、縄文文化古層の関東地方北総を中心としてこの神事が行われている。その神事が中国に伝播して「春秋」や「馬王堆墓」の絵等に影響を与えたと書いてあるとのこと、未読なのでまだ確認していない。

しかし、オビシャ神事は確認できるもので江戸時代中期頃に行われ始めた所が多いそれはなぜか。


・オビシャのはじまり
中国
オビシャの起源は古代中国にある、『礼記』の射儀から来ている。射礼には4つの項目「大射」、「燕射」、「賓射」、「和郷射」がある。
その中の「射礼」とは、『天 子が宗廟の祭を行う前に祭祀を行う者、参列す る者を決定するための儀式として射宮で行う射礼である。』さらに『その意義は(1)祭りに際 して諸 侯などに推薦 された有能な士を選ぶこと。 (2)射の成績によって諸侯 ・群 臣を試みて徳行のある者を選ぶこと。 (3)君臣相与に礼楽 を習わせ しめ ること』である。

この儀式は秦王朝の前期から宋や明の時代まで行われていた儀式です。国家間の儀式だろうと民間での祭事であろうと継続して行われていました。周代はかなり思慮深く厳密だったので漢王朝以後は儀式が簡素化されていきました、唐王朝が開かれると儀式が新定され軍事祭典としての色が濃くなっていき、後期になると安史の乱などで神聖性が失われるが北宋末期になると周礼に回帰した。明代の永楽帝が北京に遷都した後は歴史資料から見られることはなくなっていく。

日本
―引用―
古代から中世
日本では古代から弓射行事が行われています。古代中国から日本に伝わり、宮中で行われていた射礼は、『日本書紀』清寧天皇四年(483 年)九月一日の記述を最古に、天武天皇(672-686)の頃には毎年 1 月 17 日に「射礼」あるいは「大射」が行われた記述があります。豊楽殿の崩落後は天皇の出御も無くなり次第に衰退していきました。9世紀の木製の柄に二股に分かれた雁股鏃という鏃をつけた矢3本と、矢の散乱する中間地点で、竹で編んだ平たい形状をしたザルが出土し、また、近くの川岸には「神矢」「弓」などと書かれた墨書土器が一定間隔で並べられた状態で出土し、平安時代に弓で的を射る神事が行われていたのではないかと考えられます。中世になると貴族から武士が神社に奉納するようになりましたが、北朝の後光厳天皇の時代の応安年間以降は廃れてしまう。


近世
 享保9年(1724年)、江戸幕府将軍徳川吉宗が小笠原常春に小笠原流の伝書を研究させ新たな流鏑馬を制定する。更に幕臣に流鏑馬、笠懸を師範する任を受ける。
 享保13年(1728年)、徳川吉宗が穴八幡で流鏑馬奉納。
 元文3年(1738年)、竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬を描いた「流鏑馬絵巻」が奉納される。


・浅草流鏑馬
> 『東都歳事記』(天保9年 1838年)によると浅草神社の正月行事として毎年1月5日に実施され、流鏑馬は、三社大権現の神職でもあった田村八太夫が流鏑馬に用いる弓矢を三社大権現に持参し、社人四人を従え共に内陣にて祝詞を読む。次に四人は内陣より退出し、外陣において神楽を奏し三番を舞う。この神楽が終わると弓矢を神前より下げて社人に授ける。社人の内三人は、狩衣を着て騎乗し、一人は唐綾の装束を着て鬼の面をつける。また、役見世と人足四人は、片面に鬼と云う字を書いた的を2メートル位の青竹に差し、鬼の手を引きながらこの的を持って馬前に走る。射手は、最初に東の方角に矢を放ったのち、本堂を西より北へ二週し、再び三社大権現の前に来て天地四方に矢六筋を放って終了する。放った矢を拾うと運がよくなるといわれ、人々は、競って拾いあった。


・田村八太夫とは何者か?
 田村八太夫 (代々此の名を通称、関八州の巫女を支配をしたので八太夫と称す)は三社権現(浅草寺)の神職である。
 神事舞太夫頭頭幸松勘太夫が陰陽師家との出入りの不始末から宝永四年(1707年)、頭訳追放により翌五年八太夫が頭役になる。
 田村八太夫の下に瞽女が神事舞太夫として組み込まれていった。そして京都神道家から独立し将軍の威光を借り両部習合神道の一派を構える。


https://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80


まとめ
かなり脱線したが、関東北総のオビシャは江戸時代中期の小笠原常春が新定したモノが田村八太夫衆や江戸の武士により各地に伝播したと考えられる。流鏑馬は現代に残ったが御歩射といった非馬上射術の祭事は近代になると徐々に消えていった。

ではまったく射日神話と関係ないかと言えば自分はそう思わない、古代中国の弓に対する神聖な思いは黄帝の時代を敬い理想とする孔子やそれ以前の王侯貴族が羿の神話を体系化していったのではないかと自分は考えている。(羿は黄帝に9つの太陽を射落とすように言われて射落とした神様)。後世核の部分が形骸化し殻の部分に意味をもたせモノが日本に渡り、江戸時代〜現代に新たな儀礼となったとみる。

それとゲーター祭りや「太陽を射たモグラの話」を掘り下げたいと思う
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