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2019年02月01日22:23

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反ヒトラー派のリーダーだったシュタウフェンベルク大佐は本当に英雄なのか?


これも、僕が他のブログに書いたことがある記事です。

10年ほど前にトム・クルーズ主演のハリウッド映画「ワルキューレ」が公開されていて、多くの人が見に行っているようです。当然ながら、多くの人は、この映画を見た後に,
「シュタウフェンベルク大佐は、ナチス・ドイツの不正を正すべく、正義感から反逆者となり、独裁者ヒトラーを暗殺しようとしました。本当に立派なことだと思います」
というような、感想を抱いているようです。

ですが、僕は、このヒトラー暗殺未遂事件はかなり前から知っていて、シュタウフェンベルク大佐と、反ヒトラー派将校に縁のある場所を訪れたこともあります。シュタウフェンベルク大佐が爆弾を爆発させたヴォルフスシャンツェ(現在はポーランド領にある)、大佐を含む反ヒトラー派の将校が銃殺された旧ベンドラーブロック(ベルリン市内にある)、人民法廷の後に、多くの反ヒトラー派の将校、政治家が処刑されたプレッツェンゼー(同じくベルリン市内にある)に行ったことがあります。ですから、ちょっと視点を変えて、敢えて、シュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー派将校たちは、本当に英雄だったのだろうか?ということを、考えてみようと思います。


まず、シュタウフェンベルク大佐が本格的に反ヒトラー派として行動を開始したのは、ソ連軍との戦いで、バルバロッサ作戦、スターリングラート攻略戦が失敗し、ドイツ軍の敗色が濃厚になりつつあった時期だった、ということに注目してもらいたい。

彼が、もし、本当に、ヒトラー政権とナチスの政策に疑問を感じていたのなら、1933年にヒトラー政権が誕生した時から、ずっと、反ヒトラー派でなければならなかった筈だ。でも、ヒトラー政権が誕生した頃は、シュタウフェンベルクはヒトラーとナチスの政策には反感を抱いていなかった。

だから、シュタウフェンベルクに対してかなりきつい見方をするのなら、ちょっと、「日和見主義者」といった面もあったことは否定できない。これは、他の反ヒトラー派将校にも言えることだろう。ポーランド、フランス作戦など、ドイツ軍の快進撃が続いていた時は、ヒトラー政権に同調していたが、敗走が始まると反ヒトラー派になったというのでは、日和見的と思われても仕方がないだろう。映画に登場する反ヒトラー派将校の中で、ヒトラー政権誕生から、ずっと、反ヒトラーを主張していたのは、ルートヴィッヒ・ベック上級大将ぐらいだろう。

ベックがいかにヒトラーとナチス党の台頭を嫌っていたかは、ウィキペディアなどの説明を見ればわかる。実は言うと、ベックの反ヒトラー活動というのはかつてNHKの「その時、歴史が動いた」で取りあげられたことがある。番組では「その時」を、1944年7月20日にベックが自殺していた時に設定していた。松平アナが、「ベックが自殺するまであと半年」などと言っていた。

ウィキペディアの説明。

参謀総長

1935年に総統アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約の軍事条項破棄を宣言した後、晴れて伝統ある参謀本部総長を名乗ることになる。以後参謀総長として新生ドイツ陸軍の建設に邁進する。

軍事テクノクラートとして、当時のドイツの軍事力ではイギリス・フランスなどを相手に戦った場合に勝算の無いことを見越し、ヒトラーの威圧的な外交政策に懐疑的であった。ドイツを大戦前の強国に戻すために、ヒトラーが主張するチェコスロバキアに対する攻撃自体には反対していなかったが、少なくとも1940年以前は無理とみていた。

1938年、ヒトラーが計画通りに、チェコ国内に少数民族として生活するドイツ系住民の民族自決に関わるズデーテン問題が先鋭化したとき、ベックら一部の陸軍将官は、ヒトラーがチェコ侵攻を命じた場合、戦争を回避するためにヒトラーを逮捕するクーデター計画を準備していた。しかし英仏両国が外交的譲歩をしたためチェコ侵攻命令は出されず、この計画は実行されなかった。

ベックはヒトラーが行ったブロンベルク国防相らの更迭に不満を持ち、既に1938年8月に参謀総長職の辞表を提出、第1軍司令官を拝命した直後の同年10月に退役し、以後軍務に戻る事はなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF


シュタウフェンベルクを始めとする反ヒトラー派の将校たちのプランは、ヒトラーの暗殺に成功した後、ナチス幹部を逮捕し、SS、ゲシュタポといった組織を解体して、なるべく、米英・西側連合国に近い政権を誕生させる。その後、西側連合軍との戦争は終結させて、共産主義のソ連軍との戦いは継続する、というものだったようだ。

だが、「ワルキューレ」が失敗に終わった後の、連合国の反応は、極めて冷ややかなものだったらしい。
「1940年には、電撃戦による大攻勢でフランスを始めとする西ヨーロッパ諸国を占領し、“バトル・オブ・ブリテン”でイギリス各都市に無差別爆撃を行った。そして、占領した地域に住む大量のユダヤ人、ジプシーなどを強制収容所送りにして、レジスタンス活動も弾圧した。だが、その後、敗色が濃くなったらナチス党幹部を連合国に引き渡すから、ドイツにとって都合の良い条件で講和させて欲しいというような話は、とても受け入れられない。西側連合軍はソ連軍と共にベルリン占領まで戦う」
というのが、連合国首脳の一致した意見だったという。それに、すでに連合国首脳が集まった1943年1月のカサブランカ会談で、「連合国は枢軸国の条件付き講和は受け入れずに、無条件降伏するまで戦う」ことを確認していた。つまり、シュタウフェンベルクが率いた反ヒトラーのクーデターは、どう考えても成功する可能性などなかったのだった。


ただし、ドイツでは、今でもシュタウフェンベルクと反ヒトラー・グループの行動は高く評価されていて、ドイツには、シュタウフェンベルク、トレシュコウなど、反ヒトラー派将校の名前が付いた通り、公園が数多く存在する。

さらに、戦後のドイツ政府は、シュタウフェンベルクによるヒトラー暗殺事件を最大に利用して、「クリーン国防軍」、「邪悪ナチス軍(SSなどのこと)」というイメージを作りあげた。

以下、他サイトからの抜粋。

(日本と比較して)一方ドイツは、戦争そのものに関しては、当時の歴史の流れとしてやむを得ぬことであったと、冷静に認識している。ユダヤ人ホロコーストに対しては、あれは、ヒトラーとナチスがやった事であって、大多数のドイツ人は無実である。言いかえれば大多数の「良いドイツ人」は、一部でしかない「悪いドイツ人」の犠牲者であるという、「良いドイツ人」・「悪いドイツ人」神話を作り上げ自らを信じこませた。(中略)軍隊組織にしても、「クリーン国防軍」・「邪悪ナチス軍」伝説を作り上げた。

この伝説は終戦直後から生み出されたが、決定的になったのは東西冷戦が激しくなり、西ドイツの再軍備が必要になり、戦前の国防軍の将校の活用が必要になった時である。

(中略)

この伝説は、ドイツ人自らの信じ込みは勿論、世界中の人間に信じ込ませるのにも成功した。
最も貢献したのは、1950年代以降のアメリカの戦争映画には、邪悪ナチス軍のような「悪いドイツ人」と、ロンメル将軍に代表される、「善いドイツ人」が登場するようになったことである。
西側の戦勝国は冷戦の深まりで、あわてて旧敵国ドイツを味方にする必要が生まれた。その為、ヨーロッパ中を戦火に巻き込み、4000万人とも言われる犠牲者を出した責任を、ヒトラーとナチスを悪役にしておしつけたのである。


上の引用した文章を簡単にまとめると、日和見主義者かもしれないシュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー・グループを、反ナチス運動のシンボルとして利用し、
「ヒトラーに信用されていた将校の中にも、ヒトラーを嫌っていた者がいた。そして、ロンメル元帥が自殺を強要されたように、何人かのドイツ人は、ナチス政権の犠牲者なのだ」
というふうにドイツ政府は主張して、ドイツの戦争犯罪を軽くすることに成功したということだ。


だらだらと、シュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー・グループを批判する記事を書いたけど、僕の率直な意見としては、ヒトラー暗殺未遂事件は高く評価できるものだと思っている。ナチス党独裁の時代に、命を賭けて、祖国を破滅に導く悪魔と戦うのは、とても勇気のいることだったと思う。

しかし、残念なのは、行動を起こす時期があまりにも遅すぎたことだ。連合軍の勝利が確実になりつつある時に、反ヒトラーのクーデターを起こしても、敵の連合国も交渉しようとは思わなかっただろう。最善だったのは、ドイツ軍がポーランドに侵攻する前にクーデターを起こして、ナチス政権を潰してしまうことだったのだろうが、やはり、ナチスの政策、戦争遂行が上手くいっている時に反逆を起こすことは、あり得なかったのだろうか?この疑問は、当時の大日本帝国にも当てはまることだろう。

写真はシュタウフェンベルク、ベックなどの反ヒトラー派将校たちが1944年7月20日の深夜に逮捕された、旧ベンドラーブロックの建物内の写真。今では、「ドイツ抵抗運動記念館」になっている。

左が記念館の入り口で、真ん中がシュタウフェンベルクなどが処刑された中庭。右がシュタウフェンベルクなどが捕まり、ベック元上級大将が拳銃自殺を遂げた場所。


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