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2018年09月25日21:47

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言論誌たることを放棄した言論誌の末路

『新潮45』休刊 会社として「深い反省の思いを込め」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=5303981

新潮45の一連の反LGBTキャンペーンは、「言論」と呼ぶにはあまりにも粗雑で暴力的だった。

「言論」と呼べるためには少なくとも、主張に論理矛盾がなく、事実認識に誤りがないことが最低条件だ。しかし杉田氏の議論にせよ、その後の擁護論にせよ、こういう初歩的な要件が満たされていなかった。

杉田氏は、自分がそうだからみんなそうとか、歴史的に差別するような国ではなかったとか、あまりにも薄弱な根拠でLGBT差別はないと主張した。しかし、その後の文章でおそらくは無自覚にLGB(Tは除く)の人々を「不幸な人」と決めつけた。

つまり、事実認識の誤り(差別はないという事実認識)+論理矛盾(差別はないとしながら自ら差別)という、必須の2要件をどちらも落としている。

擁護論も擁護論で、前回の日記に綴った通り、論理的にメタメタの内容である。杉田議員の擁護論ならば、彼女の主張を補強するように展開すべきなのは言うまでもなかろう。ところが応援団諸君がやったことは、「LGBTなんて概念は知らないし、知るつもりもない」とか、「彼女はこんなに貴重な人材だ」とか、元々の杉田氏の主張と噛みあっていない議論ばかりだった。

前回詳述したので繰り返さないが、応援団たちの議論もまた、「主張に論理矛盾がなく、事実認識に誤りがない」という2要件を満たしてはいなかった。

本来、こういう内容で原稿が上がってきたら、編集者が編集方針に照らして吟味し、論理矛盾は指摘のうえ訂正させ、事実認識については検証可能なデータや出典をつまびらかにさせなければならない。新潮45にはそれが出来ていなかった。

ある意味で新潮45は「言論誌」たることを放棄していたのである。だから言論の最低条件を二つとも欠落させた寄稿文を、安易に採用してしまうのだ。

おそらくは、売れればいいんだという精神が、一部読者への過度の迎合と、挑発的かつ暴力的な紙面づくりを生んだのだろう。新潮45は売れ行きが低迷していたそうだから、なおさらその傾向は強かったに違いない。

しかし、言論誌だからこそ売れなくても存続が許されたのに、言論誌たることを放棄してしまえば、売れないばかりか他の出版物にまで塁を及ぼす媒体など、新潮社にとって存続させる動機はもはやない。

今後、同系統の雑誌で、新潮45の休刊を言論封殺のごとく問題視する動きもあるかもしれない。だがそもそも「言論」たりえていなかったとすれば、今回の休刊は封殺というより、自滅というべきだろう。
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