《染まらない水色と白》
昨日、大荒れに荒れた空模様が、本日には一様に見違えた。
努力の甲斐あったのか、否か、やはり過去の自分の一部が消えた。
壮大な水色のスクリーンに大きな雲が姿を見せている。
かつての夏休み、ドライブ中に目にしたあの光景、あの曲。
全てが懐かしい。
暑い日差しだった。ハスの田んぼが周囲に広がる田舎道。
天気の影響で空は表情を大きく変化し、気まぐれな風がその表情を更に変化させる。
毎日のように行き来した田舎道。
飽きる事を知らなかったいつもの景色。
深く考えない毎日。
だから思いっきり笑う事が出来た。
若かりし、夏の自分。
《変わる地図と変わらない記憶の地図》
たまに通る道路は混乱を覚える。
いつの間にか変化した道路が、自分に遅れませの変化を伝える。
単なる道路にも過去の記憶は埋まっているもので、それが変化しているとなるとなんだかさみしい。
時代は流れている。知ってる。
でも、かつての記憶が掘り返され、埋められ、リセットされた土地としてそこに鎮座する姿は感慨深い。
学生服で走り回った笑顔のアイツ。
そういえば、何年の月日が流れたのだろうか。
《新世界より》
きっと長生きできない。そう感じるこの頃。
死を望んだ十代。願いかなわず、生き過ぎたのだから明日死んでも文句はない。
今日の暑さに隣人が倒れた。大事には至らないが、まだ続く暑さを思うと心配だ。
頑固な隣人は医者に行かない。人に伝える事の無い他の病気の発覚を恐れているようだ。
人生80年、それでも恐れがあるとは驚きであり、羨ましい。
死後の世界が気になっている。昔から。
あの世とはどんな場所なんだろう?
よく考えるが、もちろん想像ばかりで答えなんか出てこない。
生きている限り知る事の出来気ない向こう側の世界。
あるのなら想像は膨らむだろう。でも、そこで待つのが天国か地獄かは別の話。
人はとても強欲だ。天国に位置しても、それを地獄と表現する事は目に見えている。
結局、満足なんて得られ続けられる訳がない。それが人間だ。
でもきっと、死ねば次は無い。そんな気がする。
地獄ではない、真っ暗でもない、『無』すら存在しない。そう、場所や空間が存在しない。
死とはそんなものだと、最近思うようになった。
転生とは途方もなく都合の良い表現だ。
まあ、あるのかも知れないけど、こればっかりは死んでみないと分からない。
《晴天の星空》
昼間の雲はどこかに身を潜め、今はとてもたくさんの星が顔を出している。
何年も変わらぬ場所から眺める星は、いつの時でも飽きる事を感じさせない。
これが学生時代なら即座に友人を引っ張って外に走り出した事だろう。
そんな思いを実行できたのも遥か過去。
みんなはかつて見た光景を覚えているのだろうか。
そんな事を思って空を見に再び同じ場所に立った。
(……曇ってやがる…!)
はいはい。みんな覚えてないのね。
そーゆう演出はいいから。一時間でこうも空模様が変化しているとは思わなかった。
気分台無し。
《迷宮組曲》
生まれて来た瞬間に、人は目に見えぬ迷宮に放り込まれる。
人生なんて誰が見ても先なんか分からない。
ぼんやりと目に付く光をなんとなく追いかけるような行為そのものが人生だ。
その光が正解なのか不正解なのかすら判らない。そもそも、光に辿り着けるかさえ疑問だ。
人は生きるうちに様々な人に出逢う。
色々な人はそれぞれに長短の異なるメロディを有している。
もちろん、自分も。
波長の合う合わないは共鳴してみないと分からない。
分からないからこそ声を掛け合うものだと考えるが、そうもいかない展開も少なくない。
例えば俺自身。
なかなか近付く勇気がわかず、近付かれるのを待つ性格。職場関連で声を掛ける事で知り合った相手は数知れずだが、学生時代を含めたプライベートで声をかけた相手が未だに数える程度とは我ながら凄いと思う。その数、2名。10歳の時と、35歳の時だっけかな。
生きているうちに自分の性格の全てをさらけ出せる相手に巡り合いたいものだ。
それにしてもこの迷宮は無限に広い。
《この両手の中に水があるならば、種を落としてもらって大切に育てよう。
誰かが描いた地図が空に溶けたなら、僕が真似て描いた地図に君を足そう》
想いを伝える手段は無限にあり、一方でその無限はとても脆く、同時に疑いを運ぶ。
信用に足る時間帯は限られており、かつての笑顔は怪訝に変化する。それが人間であり、時間の流れだ。悪者は存在しない。
水は生命の源だ。そこに種を落とせば生命は息吹く。
しかし、現実世界には器が存在しない。
地に植えれば雑多に混ざってその存在を見失ってしまう。
大切な想いを証明するものは自分の生命。
死の瞬間まで両手の中の水に沈む種を見守る姿は勇ましい。風化する己の肉体。当然の死。
どこにも良い所なんて無い。そして救われる者も存在しない。
でもきっと、人の世の中なんて、そんなもの。
人は必ず何かを思って毎日を過ごしている。嫌な未来なんか見たくない。そう思いながら、現実の嫌な時間を一生懸命生きている。
自分の幸福比較要素は過去の出来事、そして今現在。
努力の結果か、運の要素か、それまでの生活環境で培った幸福度。それと知識に押し込まれた善と悪の意識は個々の中で異なりがあり、そのどれもが正解ではなく、不正解でもない。更には平等性すら備わっておらず、見本さえ存在しない。
そいった中を誰もが歩いている。
全ての生命に唯一与えられた平等は『死』。
死への条件なんか無い。寿命だろうと事故だろうと病気だろうと死は『死』だ。
死を味わった人にはその先が無い。肉体を失い、鎮魂され、生きる人間の目に入り込む事はそれ以後皆無だ。
残されたのは接触した経緯の記憶。風化を続ける記憶は次第に曖昧になり、良くも悪くも都合が自動処理を施し続け、やがて押し迫る時間の波に呑み込まれ、その記憶の空間も狭く小さく姿を変化させる。そして完全に消えてしまうのをただ待つのみ。
でも、それはきっとかなしい行為だ。
誰も迷惑に思わない、誰も気にする事すらあり得ない自分の記憶の中の存在。
それでもなんだかさみしい気がして止まない。
だから未だに広がり続ける自分の地図に、彼や彼女を載せてみる。
あの瞬間が嘘ではなかったという証明に。あの人たちの想いを僅かながらにでも叶えられるように。
苦痛は確かにあった過去の消失ではない。
確かに共に歩いた記憶の消滅が本当の苦痛だ。
《あとがき》
荒川沖店に行こうと思って何回か足を運んだ本日。
勝手知ったる自分。気の弱さは人並み以上だ。
今やどんな人が中で作業しているかも分からない店舗、何を気にする必要がある?
そう思いつつも、かつての光景を思うと駐車場にすら入る事が出来ず、結局素通りを5回ほど繰り返して帰ってきてしまった。
どこかでも同じ内容を記した覚えがあるが、想い出の濃い場所ほど入る事をためらう性格だ。
例えばかつての同僚の誰かが存在するなら平然と入りこむ事が出来るだろう。それは記憶の延長という事で、始まりから続く『流れ』のように受け止める事が出来るからだ。
でも、状況の分からない今は、記憶という名の宝箱の破壊行為にしか思えなくて、どうしても一定区間以内に入りこむ事が出来ない。
自分が成長できない理由がこう言った思いにある事は認識できている。
けど、輝かしい過去の光景を壊す事は、どうしても一人ではできない。
そして一人では行けない場所が、今となってはあまりにも多過ぎる。
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