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2018年02月27日00:00

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数の圧力

コロコロ不適切表現で抗議集会
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5003847

「不適切」という。
「悪魔の詩」事件を想起するのは、年寄かな。
「たかが神」を揶揄しただけで、国家指導者が他国の一般人に死刑宣告を出し、
日本人が殺された。
あの国の民は、あのことをどう思ってるのかな。
「うちは前近代的な土人の国で恥ずかしい」
そんな反省の弁を耳にしたことはないけど。

 宗教でもなんでもそうだが、「自分が敬愛している」とさえ言えば、表現側は一律に平伏しなければならないのかね。

たとえば、「バモイドオキ神」を、誰かが侮辱したとろで、それに対する抗議が聞き入れられることなどない。

なぜって、抗議者が一人だけだろうから

別に「表現の自由」を無制限に認めよと主張するつもりはないけれど、
その「自由」とやらの基盤は、大勢の、声の大きさに左右されているのじゃあないか?ということを、多少なりとも考えて欲しいよ。   
「自主規制」に代表されるような「表現の委縮」ってのは、「誰か一人だけの心が傷ついた」からといって、「かわいそうに」という憐憫やら道義心から生起するのでなくて、「傷ついた」「侮辱された」と「騒ぐ連中が大勢」であり、だから「圧力となる」からなんだね。

「神聖さ」なんて、文化相対的なものにすぎず、そのことは、バカなJポップ的に「一つだけの花」とかいって、「違いを認め合って仲良く」ということに帰着はせず、「あいつらのことは理解できない」という「亀裂」を知る第一じゃないのかな。
女だけが外出時に布を被るだの、自動車の運転ができないだの、ブタが穢れてるだの。
そんな連中が、日本人を残忍に殺し、自爆を繰り返す。
「ほとんどのムスリムは穏健」と言われても、自分の心はまったく説得されない。

チンギス・ハンだろうと、推古天皇だろうと、イエスだろうと、所詮、死人である。
「先祖」「神」「国家」等々、「人を束ねる原理」として有効なことは認めるが、どこまでいっても、それは「擬制」であり、「物語」以外ではない。
無論、こうした批判は「それなしで生きるのが容易である」とか「自分だけそれから乖離して澄ましていられる」ことと同義ではないけれど。

自分は、既存宗教の聖性より、近代法の自由闊達さの方を擁護する。
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