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2017年12月11日07:46

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人を注意する時に大切なこと

「人を注意する時に大切なこと」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/18294 (写真入り記事)

時々、人を注意して指導しなければならなくなる立場に立たされます。

それが子ども相手ならいざ知らず、大の大人が相手ならつらいです。

どんな人でも、人から注意されたり、批判されることはうれしくないからです。

この時、「私は正しい!」というスタンスで注意するとしたらどうでしょうか? 

キツイ対応になります。

もちろん、言うべきことは言わなければなりませんが、少なくても、上から目線で物を言うというのは、相手が素直に受け止められない可能性が高くなります。

「私は正しい!」というスタンスは、自分の事を棚に上げなければできることではありません。

誰もが失敗をした経験がありますし、人から注意されて、わかっているけれど、素直に「ごめんなさい」「わかりました」「教えて下さってありがとうございます」などと言えなかった経験があるはずです。

それを思い起こしながら語るとしたらどうなるでしょう。

「私も同じような失敗をするし、弱さを持っているけれど、あえて言わせて頂きたい」というスタンスになります。

これは上から目線にはなり得ません。謙ったスタンスであり、同じ目線です。

そうやって注意したとしても、必ずこちらの真意が伝わるかと言えば、そうではありません。

プライドが高く自信のない人、ナルシストで過剰な自己愛を持った人などはは、真っ赤な顔をして逆切れすることも考えられます。

そういうリスクを犯してでも、嫌われることを恐れずに言わなければならない時があります。

極めつけは、相手の幸せや祝福を願いながら注意することです。

聖書は、「互いの重荷を負い合いなさい」と語ります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6章1節〜5節)

自分を棚に上げないで言うことはつらいです。

通常、そこまで考えたら言えなくなってしまいます。

しかし、それでもあえて言うとしたら、相手への愛です。

そのように、互いに重荷を負い合って、より良い社会を目指していきたいですね。

私は、イエス様の愛を思い出します。

イエス様は、罪のないお方であるだけではなく、罪を知らないお方です。この方が私の罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。

そして、私を責めることなく、赦し、愛し、受け入れて下さいました。

人を注意する前に、この方の愛を体験し、祈りながら言わせて頂くことが、最も相手にとって益になる言葉ではないかと思います。

神の愛に感謝しつつ。
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