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2017年11月30日14:31

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無我の三味鍋と別世界の土俵

■デーモン閣下「指導に暴力肯定の空気なお」日馬富士問題
(朝日新聞デジタル - 11月29日 20:22)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4881402


スポーツなどでもチャンピオンになる者やなんらかのどんなことでも成功体験すると


すばやく相手の心の中まで見ぬくことや 自分が球と化して 身に付けば どこにいくかがわかる時がある。


それが連続してプレー中に続き 強いプレイヤーというのは日常茶飯事になる人もいるはずだ。


うらやましい限りですが、そういう事は緊張しかたくなる事とはぜんぜん違うのです。

横綱をつける意味はあるとしても、簡単には急激に水が氷と化する様に、瞬間にして透明な結晶体の精神の持ち主となれる。


そうした人が必ずチャンピオンやなんらかのことを成し遂げたはずだ。


ただ、未熟者だけが、その時にあたって、突如として息をのむ圧迫感や怒りに襲われるのです。


若い者には余裕がないのはあたりまえです。


むしろそれは美しいのですが、暴力はいけませんね。


論外であり、若さとも言えない。

若さなら洋々たる未来が約束されているという期待がある事もできましょう。


また反対に若いくせに余裕あり気な態度だけ真似ても それは慎しまなくてはなりません。


というか それは結果が出てこないはずです。


おそらく いかなる名人と云えども 同じ程の圧迫を自分の身に感じることに変わりはないが、どこか そのあやうい一点


つまり爪先を支点として かろうじて全身を支えている なんらかの形に 平然として居られればこそ 名人や名手 のねうちがあるというものです。


それが横綱なのですから、きっとそうした専門家の方ならもっと深い意味があるのかもしれないし、


ものすごく有名な力士がいて、政界にも昔に影響を与えるくらいの 人としてもすごい力士がおられた。


そういうのはスポーツでも国技でも芸術や宗教ともなると、今の所は写真に写して疑いの雲を晴らすまで進歩しつくしては居りません。

幸か不幸か。

美しい品格と精神の末端が、やさしい静かな舞の様にゆらゆらとゆれ動いているのなら それは美しいとみたはずです。


本来、美しいとは若さでもあり、美しいものは新しいもので つねにあたらしくなってもいかねばならないはず。


美しいものを観たり触れると その精神は新鮮なものになる。

それは時間を超越するから、そこには年齢の差別すら存在はしない。

そうした世界をかたちづくるからこそ 綱は天にまします横綱の父よ。



舞の海は好きだったし 金剛力士が好きだったな

まぁ 誰もが思われたように見る側においても かくのごとき状態がありありと現れるわけです。


一つの絵なら絵の上に、、、

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