産経新聞に連載している楠木正成の記事を
興味深く読んでいます。
後醍醐天皇には余程のカリスマがあったのでしょう、
河内の国の悪党、楠木正成を始め、新田義貞らの武将らが
熱狂的に信奉しました。
中でも特筆されるのは日野俊基(ひののとしもと)です。
太平記にある彼の辞世の詩には、現在もある地名が読み込まれています。
交野、嵐山、鏡山、森山、老蘇、番場、醒ヶ井、柏原、不破、尾張、熱田、八剱、
鳴海潟、遠江、浜名など、死出の旅路によくもこれだけの歌が詠めたものです。
作品中「捨て小舟」とありますが、これは自らのさだめを歌ったものと思われます。
日本人がとうの昔に失くしてしまったプライド、矜持が、
彼の詩には溢れんがばかリではありませんか。
戦後73年に及ぶ虚構の社会に、わたしたち日本人の精神は、
ここまで腐ってしまったのでしょうか。
戦後日本人に、何かを訴えんとしてこの詩は詠まれたのかも知れません。
頭に一撃を喰らった如く甚く感銘して、作曲しました。
尚、タイトルはわたしが勝手につけました。
≪辞世之唄≫
日野俊基
(後醍醐天皇が忠臣日野俊基元弘の乱にて捕へられ鎌倉に護送後打ち首になる道中で詠みし辞世の歌)
(Capo 2) Am/Dm/Am/ Bb/Am/Dm6/E7/ Am/A7/G/C/ Bb/Am/Dm6/E7/Am
落花(Am)の雪に踏(Dm)み迷ふ(Am)
交野(Dm)の春(Am)の桜狩(Dm6E)
紅葉(Am)の錦(A7)着て(G)帰る(C)
嵐(Bb)の山(Am)の秋(Dm6)の(E)暮(Am)
一(Am)夜を明す程(Dm)だにも(Am)
旅(Dm)寝とな(Am)れば物(Dm6)憂きに(E)
恩(Am)愛の契(A7)り浅(G)からぬ(C)
我(Bb)が故郷(Am)の妻(Dm6)子(E)をば(Am)
行(G)方も知らず思(C)ひ置き
年(Bb)久し(Am)くも住(Dm6)み慣れし(E)
九(Am)重匂(A7)ふ都(G)をば(C)
今(Bb)を限(Am)りと顧(Dm6E)て(Am)
Bb/Am/Dm6/E7/Am
思(Am)はぬ旅に出(Dm)給ふ(Am)
心(Dm)の中(Am)ぞあ(Dm6)はれなる(E)
時(Am)雨もい(A7)たく森(G)山の(C)
木(Bb)下露(Am)に袖(Dm6)濡(E)れて(Am)
風(Am)に露散る篠(Dm)原や(Am)
篠(Dm)分け道(Am)を踏(Dm6)み行かば(E)
鏡(Am)の山(A7)はあ(G)りとても(C)
涙(Bb)曇(Am)りて見(Dm6)へ分(E)かず(Am)
物(G)を思へば夜(C)の間にも
老(Bb)蘇の森(Am)の下(Dm6)草に(E)
駒(Am)を止(A7)めて顧(G)みる(C)
故(Bb)郷雲(Am)や隔(Dm6)つ(E)らむ(Am)
Dm/Am/ Dm/ G/ C/ E/ Dm/ Am/ Dm6/ E
番(Am)場醒ヶ井柏(Dm)原(Am)
不(Dm)破の関(Am)屋は荒(Dm6)れ果てて(E)
猶(Am)漏るも(A7)のは秋(G)雨の(C)
い(Bb)つか我(Am)が身の尾(Dm6)張(E)なる(Am)
熱(Am)田八剣伏(Dm)し拝み(Am)
潮(Dm)干に今(Am)や鳴(Dm6)海潟(E)
傾(Am)く月(A7)に道(G)見へて(C)
明(Bb)けぬ暮れ(Am)ぬと行(Dm6)く道(E)の(Am)
末(G)は続くと遠(C)海
濱(Bb)名の橋(Am)の夕(Dm6)潮に(E)
引(Am)く人も(A7)なき捨(G)小舟(C)
沈(Bb)み果て(Am)ぬる身(Dm6)にあ(E)れば(Am)
誰(Am)か哀(A7)れと夕(G)暮の(C)
晩(Bb)鐘(いりあひ)鳴(Am)れば今(Dm6)は(E)とて(Am)
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