mixiユーザー(id:4997632)

2017年08月01日11:31

185 view

原発雑考第349号の転載  夏の記憶  深層防御と安全文化など

 原発雑考第349号の転載です。

2017・8・5
発行 田中良明
転載自由
連絡先 豊橋市富士見台二丁目12-8 E-Mail tnk24@tees.jp



夏の記憶

  ヒロシマ、ナガサキの夏。それに係わる二つの夏の記憶がある。
 一つは、小学4年生の1952年の夏に家で見た、アサヒグラフという朝日新聞社の週刊グラフ誌に載った広島と長崎の原爆被害の写真。
 最近調べて分かったが、見たのは、同誌の1952年8月6日号、表紙に「原爆被害の初公開」とある特集号だった。この年の4月にサンフランシスコ講和条約が発効するまで原爆に関する報道はGHQによって規制されており、この特集は原爆被害に関する日本における事実上最初の報道だった。
 もう一つは、1954年の夏に家の近くの梅津寺海水浴場に行ったおりに見た、テントを張って「原水爆禁止署名」を呼びかけていたお母さんたちの姿。
 この年の春にマグロ漁船第五福竜丸がアメリカの核実験で被爆する事件があり、それをきっかけに核兵器禁止を求める署名が全国各地で自然発生的に起こった。私の住んでいた四国松山でも海水浴場にまで出向いて署名を集めていたのである。同年末までに全国で2000万を超す署名が集まった。この署名によって、核廃絶は右派政権でも正面切っては否定することができない日本の国是になったのである。
 これらのことがあってから60年以上が経った。昨年、オバマ政権時のアメリカが核先制不使用宣言を検討した際、日本政府は反対した。今年になって、核保有国がNPT条約で義務づけられた核軍縮にまじめに取り組まないことに業を煮やした圧倒的多数の非保有国によって採択された核兵器禁止条約にも、NPT条約の枠内での核軍縮促進という現実無視の理由で反対した。
 他方で、日本政府はNPT条約不参加の核保有国インドとの間で核材料・核技術の供与を可能にする日印原子力協定を結んだ。
 さらに、核兵器材料であるプルトニウムを貯め続けているだけでなく、新たに大量のプルトニウムを取り出す六カ所再処理工場の稼働も諦めていない。
 いまでは日本政府は核廃絶に抵抗する側に位置しているのである。


 深層防御と安全文化

 先号で言及した深層防御と安全文化について少し詳しく述べる。
 深層防御は、IAEAが唱える原子力安全の基本思想である。IAEAは原発推進を使命にする組織で、チェルノブイリ原発事故の被曝障害を意図的に過小評価するなど、数々の悪事をしているが、深層防御の思想は広く受け容れられている(もちろん、思想の受け容れとその実行は別の話である)。
 深層防御の核心は、立地から住民被曝防護までの原発安全確保の諸階層はそれぞれ独立に(=他の階層に依存することなく)十全の防御措置が講じられたものでなければならないということ、言い換えれば、どの階層も前後の階層で十全な防御が講じられていることを理由にして不十分な防御で済ませることはあってはならないということである。これを各階層独立という。
 深層防御は、個々の階層の防御は想定外の事態の発生によって突破される可能性があることを認め、相互に独立した多層の防御を構築することで原発事故の発生、進展および住民被曝を極力防ごうとするものである。深層防御が徹底されれば原発の安全性は格段に高まる。ただし絶対的安全が確保されるわけではない。巨大地震と巨大津波ですべての階層の防御が一挙に突破される原発震災のような事態がありうるからである。
 以下では、いくつかの分かりやすい事例を挙げて、日本で深層防御がどう扱われているかを示す。
 まず立地基準。深層防御の思想にもとづけば、巨大な自然災害が発生する可能性がある地点には原発を立地すべきでないことになる。地形的に住民避難が困難な地点にも原発を立地すべきでない。人口稠密地帯から十分に離れていることも立地要件になる。ところが日本では、原発立地基準として存在するのは、「重要施設の直下に活断層があれば建設不可」という規定だけである。異常に緩い基準である。
 そうなっている理由は明白だ。常識的な立地基準にすると、地震、津波の常襲地である日本列島での原発立地は不可能になるからである。原発設置は不可侵の前提で、それを可能にするように基準が決められているのである。
 つぎに過酷事故対応。過酷事故が発生した際に、事故のいっそうの拡大を抑止するためには、定められた限度を超える被曝が避けられない作業を行う必要が生じうる。その場合に、事故拡大の抑止を優先して被曝限度を超える作業をさせるのか、作業員の安全を優先して事故の拡大を放置するのか。前者であれば、だれがその決定をし、どのような人たちが作業員に指名されるのか、指名された人たちには拒否権が認められるのか。これらのことが事前に決められていなければならない。後者であれば、その結果として事故が破滅的な規模にまで拡大した場合の責任はだれが取るのか。
 これはいわゆる決死隊の問題であるが、規制基準ではなにも決められておらず、事業者もこの問題から目を背けている。中部電力は株主総会におけるこの問題に関する質問への回答で、「種々の対策を講じているので、作業員が被曝限度を超えるような事態は発生しない」と言い切った。過酷事故は起きないことにして深刻な問題に向き合うことを避けているのである。これは、各階層独立の明白な否定であり、安全神話への逃げ込みでもある。
 福島原発事故後の規制基準の変更で、過酷事故発生時には可搬式設備を活用して電源や冷却水を確保することが求められるようになった。これらは作業員が現場に出向いて行う作業であり、作業員の被曝の問題はいっそう避けて通れなくなっているのに、このありさまである。
 最後に住民被曝防護=住民避難計画。住民避難計画はそもそも安全規制の対象になっておらず、原発周辺の自治体が個別に策定することになっているが、計画の実効性の検証は不要とされており、住民避難計画という名称の文書が作成されておればOKというのが実態である。実効性が期待できる避難計画は策定不能であることが分かっているので、原発立地が可能になるようきわめて緩い規制にしてあるのである。立地基準と同じ対応である。
 実際に各原発の周辺自治体が策定した避難計画の内容はどれも、自宅避難、避難経路、避難手段、避難先の確保、避難先での生活、中長期的な生活保障など、すべての点でいい加減である。なお高浜原発3、4号機運転差し止めを却下した大阪高裁決定では、「周辺環境への放射性物質の異常な放出に至ることはまず想定しがたい」から、避難計画の不備は問題にしなくてもよいとしている。各階層独立を真正面から否定して避難計画の不備を免責することで、運転差し止め却下という結論にむりやり導いたのである。 
 以上のように、日本の深層防御は各階層独立という核心が空洞になっている。原発設置を可能にしたい、深刻な問題に向き合うことは避けたい、などという都合が優先された結果である。都合優先は日本社会の日常ではありふれたことだが、原子力に係わる際には絶対にあってはならないことだ。
 その都合優先を峻拒する覚悟がないままに安直に原子力に係わったことが、日本の原子力安全文化を発育不全にした。そして福島原発事故後も事態はまったく変わっていない。それほどまでに都合優先(に代表される日常慣習的思考)の呪縛は強いということだろう。


雑 記 帳

歌人の道浦母都子さんのエッセー集『うた燦燦』(幻戯書房)が4月に出版された。眼の具合がよいときに少しずつ読んで、最近ようやく読み終えた。親しみやすい文体で、道浦さんが「うたからこぼれた小さなしずく」という、心を和ませてくれる多くの文章が収められている。
 ところで、道浦さんは、この本の帯紙で「『無援の抒情』により全共闘運動を象徴する歌人となった」と紹介され、この本の書評では「「70年安保」の時代、「全共闘歌人」の呼び名とともに鮮烈に登場した」と紹介されている(有本忠浩、毎日新聞7月8日)。
 彼女がこういうふうに紹介されるのはよくあることだ。
 しかし『無援の抒情』の刊行は、70年安保闘争・全共闘運動が最盛期だった1969年から10年以上経った80年12月である。しかも収められている歌の大半は、60年代末の急進的社会闘争に参加した彼女が70年代に生きざるをえなかった孤独、寂寥、無援の生を形象化したものである。
 同書をめぐるこのような簡単な事実をたどるだけで、上のような紹介、とりわけ後者のような紹介はまったくの誤りであることが分かる。
 「全共闘運動を象徴する歌人」、「全共闘歌人」という呼称にも違和感がある。せめて「全共闘世代を代表する歌人」とすべきだろう。

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年08月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031