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2017年01月11日12:28

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或る育児記録

0歳娘を虐待か 頭に複数の骨折
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4378613

乳児の育児の大変さは、友人のブログで知った。

もちろん、子供への虐待はよくないが、母親の心理を考えると今回の事件は、近いものがあったのではないかと思う。

『《 おかえり、娘 》

4月から、チャイルドシートが義務付けられたというのに、
いつもの、オオボケで買い忘れたため、
私が娘を抱いて病院から車で帰ってきた。(これは違反です。)

家に着くと、早速、例の、衣装ケースの簡易ベッドに娘を寝かせた。
キャスターも着いているし、なかなか、いい塩梅だった。
丁度、ミルクの時間になったので、ミルクを飲ませると、娘は、ぐいぐい飲んで、
私達の目を細めさせた。私達は幸せ気分一杯だった。

ゲップをさせようと頑張ったが、うまく出ない。このまま横にしたら、
寝返りすら打てない新生児は、吐いたミルクで、窒息してしまう。
しかし、私は、NICUで、一つ学習していた。

たくさんの赤ちゃんを世話するNICUでは、なかなか、ゲップが出ないときは
赤ちゃんを横向きに寝かせ、コットの頭側を少し上げてあった。
そうすれば、ゲップが出やすくなるし、(空気は上に上がるからね)
吐いても、横向きなので、窒息する事もない。

早速、衣装ケースの下に、雑誌を重ね、滑らないようにタオルを置いた。
お腹が、一杯になった娘は、衣装ケースの中で、
すやすやと、かわいい寝息をたてていた。

そして、3時間おきにミルクを欲しがり、
健康な便をして、思っていたより、順調に、私の育児が始まった。
そして、二日たった・・・。

 

《 やってきた悪魔 》

私の育児生活も、3日目を向かえ、
3時間おきにミルクを欲しがって泣くので少し疲れてきた。
そして、ダンナが会社に行くと、娘と2人っきりになる。

新生児状態の娘を連れての外出は、なるべく控えなければならない。
そんな時、娘に悪魔が光臨した。

「ぎゃーぎゃーぎぃやああぁああー」
と泣き止まなくなってしまった。
「いったいどうしたんだ!!」
焦った私は、とりあえず、抱いてみる。

「ぎゃーぎゃー!!」
・・・・。泣き止まない。
ミルクかな?でも、ついさっき飲ませたのに・・。

「ゲップが苦しいのかな?」
ゲップをさせてみる。
「げふ」
小さなかわいいゲップがでた。

「ぎゃーぎゃー」
でも、まだ泣き止まない・・。
「何ぃ!!今度はなんだ、オムツか!いや、汚れてない・・。」
頭の中で、考えられるだけの世話をしてみたが、娘は泣き止まない。

「一体何が気に入らないと言うんだ。コイツは・・?」
私の中で、かわいい娘が悪魔に変貌していった。

あの手、この手を使ってるうちに、
次のミルクの時間になった。(結局3時間泣きっ放し)

ミルクを急いで、作る。「待っててねー。今作るからねー」
娘の小さな口に、哺乳瓶の乳首を吸わせた。

「ちゅーちゅー、ゴクゴク」
娘は満足そうにミルクを飲んでいる。

泣き疲れたのか、ミルクを飲み干すと寝てしまった。
「一体、何だったんだ・・・。」
私は、びくびくしながら、病気じゃありませんようにと願うしかなかった。

そして、20分後・・。
またまた、「ぎゃーぎゃー」 と、泣き出した。

 

《 悪魔との戦い 》

昼間は比較的大人しく3時間おきに泣く程度だったが
夜になると、狂ったように、娘は泣き続けた。

一旦寝ると、なかなか起きないダンナもさすがに
「明日、仕事なんだよ!!うるさいな!!」 と、キレた。

仕方なく、私は、泣き叫ぶ娘と共に、リビングへ移動した。
その夜から、ダンナと私は、別々の部屋で寝ることになった。
一体何が気に入らないのか、ひたすら泣き続けている。

その顔は、まるで怒ったように真っ赤で、抱っこしても、
「嫌だー、離してくれー」 とばかりに、手を突っ張る。
かといって下ろしても、泣き止まない・・・。

とりあえず、ミルクを飲んでいる時だけは、泣き止んでくれた。
ふと、「なにかあったら、TELでも下さいね」
と、NICUで、言われた事を思い出し、深夜に失礼とは知りつつも、
藁にもすがる思いで、NICUに、TELした。

「あの・・・。すいません、泣き止まないんですけど・・・。」
「ミルクは飲みますか?便は正常ですか?」
等々、病気かと思われる質問をされ、すべて正常だと分かると
「じゃ、心配ないです。頑張って下さい」
といわれ、TELを切られてしまった。

「こんなに、泣き続けてもいいのか・・?!」
そう言いたくなる位、娘は泣いていた。酷い時は、「ぎゃーーーーーー」
と泣き過ぎて、息を吸えず、顔が紫色の『チアノーゼ』状態になった。
そして、夜が明ける頃、悪魔は休息を取りはじめるのだった・・。

朝、落ち武者になった私はダンナを会社に送り出し、
家事を済ませ、育児経験者の友人達に、悪魔との戦い方の情報を収集した。

娘は毎日、飽きる事無く、よく泣いた。
かわいかった娘が悪魔に占領されたかのように泣く。

だんだん、顔が泣きすぎで、むくんで、宮沢前首相に似てきた。
そうなるとますます、かわい気がなくなり、段々、私はウツになっていった。

食欲もなくなり、箸を持つのも面倒になった。
ダンナは仕事で帰りが遅く、誰も手助けしてくれない。
気持ちはどんどん危ない方向に向かって走り出した。

 

《 殺人計画 》

毎日、ロクに寝ることもできず、食事さえ受け付けなくなり、
段々、娘がうっとおしくなった。

「コイツさえいなければ・・・・。」
どこかで、そんなささやきを聞いていた。

気分転換しようと、ベランダに出ると、
「手が滑って落とした事にしようかな・・・・。」
と思ってしまい、慌てて、部屋に戻った。

お風呂に入れているときも、
「このまま沈めてしまおうか・・・。」
と思い、慌てて、沐浴を済ませた。

そして、泣き叫ぶ娘を簡易ベッドに寝かせ、
「ごめんね。今タバコ吸ってるから・・・。」
と、言いつつ、台所でタバコを吸っていた。

もはや、可愛いとさえ、思えなくなり、私の精神は蝕まれていった。
1分でいいから、娘のそばから離れたかった。
それでも、仕事をしているダンナに育児を変わってくれとは言えなかった。

一晩でいい、ゆっくり眠りたかった。
しかし、娘は逆撫でするように、泣き続けた。

しかたなく毎日、
「今日まで生かしといてやる」
と、誘拐犯よろしく考えていた。

 

《 落ち武者の戦い 》

娘が我が家に戻って、1週間・・。
私は戦場で戦い敗れた落ち武者になっていた。
とどめを刺すかのように、義父の具合は悪くなり、見舞いのため、
仕方なく、誰かに娘を預けなければ、いけない事態になった。

そんなときに、私の母が退院してきた。
母は、術後とも思えないくらい元気になり、老化した頭で、
娘の世話を必死に覚えた。(頭はフル回転)

おかげで、義父の見舞いにもどうにか行けた。
そして、ダンナが、実家の仕事の都合で、1週間家をあける事になった。
私は、自分が怖くなり、友達のN子に泊まりに来てもらうことにした。

娘と2人で、一週間もいたら、殺してしまう自信があった。
何かを手伝ってもらいたいというより、
私の殺人計画実行を阻止してさえ、くれればよかった。

N子は、年が離れた弟がいるので、嫌な顔せずばっちりサポートしてくれた。
しかし、彼女の都合も3日が限界だった。
それで、仕方なく、親友KRの家に1泊させてもらった。

完全にノイローゼになっている私を見て、
普段は、毒舌のKRダンナすら、
料理を取り分けてくれたり、親切にしてくれた。

KRは20歳で子供を産んでいるので、私にとっては大先輩。
心強い味方だった。(ちなみにKRは2人子供がいる)

しかし・・・。
やっぱり娘は泣き止まない。
原因は見当たらない。

さすがの先輩ママKRもさじを投げた。
私を心配してKRは次の日仕事があるのに、一緒に戦ってくれた。
明け方、KRのダンナが起きてくると落ち武者になった私とKRがいた。

翌日からは、母が泊り込んでくれた。
育児経験者の母でさえ、
「本当に泣きやまん子やねえ・・・。」
と、愚痴をこぼした。

しかし、私の尋常じゃない様子をみて、
「一晩中、みててあげるから一日ゆっくり眠りなさい」
と、言ってくれた。

気がかりではあったが、好意に感謝して眠らせてもらった。
そして、翌朝、やはり落ち武者になった母が 「おはよう」 と挨拶した。

 

《 やってきた救世主 》

落ち武者となった母は、ある秘策を思いついていた。
(さすが、先輩母!!)

朝のうちに、早速、おばの所にTELし、ゆりかごを送ってくれる様頼んだ。
そして、ゆりかごが到着し、乗せてみると、意外と塩梅いいようだった。

同じ、泣きやまない相手をするのも、
抱いているよりも、ゆりかごを揺らすほうが楽だった。

レンタルカタログを見ていた私が、そこで究極のゆりかごを発見した!!
「 電動ラック!!」( ドラえもん風に・・・。 )

スイッチをいれて、ポンっと一回揺らすだけで、15分間勝手に揺れてくれる。
ご丁寧に、オルゴールまで鳴る♪
まさに、地獄に仏だった。

殺人計画者に電動ラック!!

説明書には 「24時間乗せっぱなしはいけません」 と書いてあったが、
24時間泣きっぱなしなので、乗せておいた。

ついでに母が誰から聞いたのか、
「にわとりの絵を、逆さに貼ると夜泣きがなおる」
と、言い出して、私は下手なにわとりの絵を書いて逆さに貼り、
ますます娘を泣かせてしまった。(絵が怖かったらしい)

おかげで気持ちが楽になり、母も私も大いに喜んだ。
実家から戻ったダンナは、私達の苦肉の策を見て呆れていた。

 

《 一ヶ月検診 》

娘の退院後、初めての検診に行った。
1ヶ月検診は、赤ちゃんだけではなく、母親の産後の経過もチェックする。

私は産婦人科で、娘が異常に泣き止まない事、
私が、かなり気分がウツになっている事、
食欲がない事などをすべて正直に告白した。

そして、娘の検査を色々したが、どこにも異常はなく、元気そのものだった。
草食動物Drは、
「赤ちゃんは泣くのが仕事ですからねぇ・・・。」
と、相変わらず、穏やかに言った。

「ここもか・・・。」 
やはり光明は見えず、がっくり肩を落とし
『異常なほど泣くんだよっ!!』 と、心の中で悪態をついた。

しかし帰ろうとすると、看護婦さんにつかまり、
「夜中泣かれるとつらいよねぇ・・。そんな時は、いつでもここにTELしてね。」
と、言われ、思わず、涙が出た。(その日の夜中TELしたのは言うまでもない)

母乳については、「マッサージしてあげるから、しばらく通ってみたら?」
と、言われ、気分転換がてら、通ってみた。
しかも、婦長じきじきにマッサージしてもらった。

噂では、おっぱいマッサージは痛いと聞いていたが、
婦長がうまいのか、とても気持ちよかった。(しかし、飲ませられるほどは出なかった)
おかげで、気分が少しだけ楽になった。

 

《 要注意人物 》

私は毎日の戦いでとても疲れていた。
私の様子を見かねた母は、こまめに我が家に通い
大切な孫に私が手を出さないよう見張っていた。

もはや娘を、可愛いなんてちっとも思えなくなっていた。
電動ラックがきてからは抱かなくていい分、楽にはなったが
かといって、泣かなくなった訳ではない。

毎日「ぎゃーぎゃー」 ラックの上で飽きもせず泣いていた。
そんな時ふと、母子手帳の裏に 「巡回育児相談申込書」 
というのを発見した。

「これだ!!」 私は早速、はがきで、巡回相談を申し込んだ。
すると、若い保健婦さんが我が家に訪れた。

「育児について、悩み事はありますか?」
その保健婦さんは、とても優しい方で、(YUさんというかたでした)
私の言葉の一つ一つを拾うかの様に、話を聞いたくれた。

私は、話している内に、涙かとまらなくなり、ついに
「子供が可愛いと思えない・・。」 と正直に言ってしまった。

「皆さん、そうおッしゃいますよ(笑)」
YUさんは、そんな私をとがめることなくただ、ただ、私の話を聞いてくれた。

「気がかりな事があったら、いつでもTELして下さいね。また、来ますから。」
そう言ってYUさんは帰っていった。

それ以来、こまめに、TELをくれたり、
「近くに来たから」 と、我が家に寄ってくれたり、
私の心のケアを本当に助けてくれた。(YUさん、感謝してます。)

今になってよく考えてみると、
あの時、私は 『幼児虐待』 の要注意人物として
保健所からマークされていた事に気が付いたのだった・・・。

 

《 義父の他界 》  

電動ラックがやってきて、私の育児にようやく晴れ間が見え始めた5月・・。
以前から入院していた義父の具合が、悪化した。

もともと、心臓病を患っていたのに、インフルエンザにかかり、
心臓に負担がかかってしまったのだ。

それで、2月から大分の病院に入院していた義父だったが、
ついに大阪にある、心臓の専門の病院へ転院し、手術をすることとなった。

しかし、手術はうまくいかず、義父は危篤状態になってしまった・・・・。
そして、ある晩、深夜2時頃、大阪で義父の付き添いをしている
義弟から、TELがかかってきた。

「お父さんが明日にでも、亡くなりそうなんだ。明日、朝一番で
こちらの病院にきてくれないかな?多分、最後になると思う。」 と・・・・。

その日、ダンナは呑気に飲み会に行っていたので、
私は大慌てで、ダンナの携帯にTELした。

「あ、もしもし、私だけど・・・。」 バックからは呑気にカラオケの音が聞こえていた。
「・・・。」 プツッ、プー、プー。
切りやがった!

また、娘が寝ないと愚痴でも聞かされるとでも思ったのか!?
それから、しばらくして、TELが鳴った。
ダンナがかけ直してくれたと思った私は、受話器に飛びついた。

しかし・・。それはまた、義弟からのTELだった。
「ごめんね。ダンナ飲みに出掛けてて、連絡がとれないの。」
「!!とにかく、大急ぎでこっちに来てね。間に合わないかもしれない」
私は、ひたすら、義弟に、謝るしかなかった・・。

そして、ダンナが帰宅したのは、午前3時を過ぎていた。

朝になるのを待って、娘を母に預け、
私とダンナは大阪行きの飛行機に飛び乗った。
病院に着くと、私達以外のすべての人が集まっていた。

義父は、既に脳死状態だった・・・。
とりあえず、義父の顔を見て、私達は別室に集まり、今後の事を話し合った。
そして、その夜、義父は帰らぬ人となった・・・。

 

《 お通夜と告別式 》

娘を連れに福岡へ戻った私達は、大慌てで荷物を用意した。
もちろん、電動ラックも、ダンナの実家へ持参した。
私達の荷物はまるで、引越しのようだった。

ダンナの実家に戻ると、通夜の準備で親戚一同大慌てしていた。
長男の嫁の私は、ここ一番頑張ろうとしたが、
娘の大泣きで結局世話に追われ、大した手伝いも出来なかった。

しかし、娘を連れて行ったことは大いに喜ばれた。
義父が泣くなり、目を真っ赤に泣き腫らした義母の顔に、
パアアと笑み(いいのか!?)がこぼれた。

初孫なので、皆が口々に、「かわいい、かわいい。」と、笑いが起きた(本当にいいのか!?)。

しかし・・だ・・。
弔問客が来るとその雰囲気も一変した。
皆、殺気立っていた。

私は、娘を置いて、手伝おうとしたが、
「こんな所に寝かせたら、寒いよ」 と注意を受け、移動させた。

すると、別の叔母から、「こんな所じゃ、踏まれるよ」 と言われ、
仕方なく、家の中を遊牧民のようにさまよっていた。

そうこうしているうちに、弔問客も落ち着いて、ようやく静かになった。
今夜は兄弟交代で、通夜守りをする事になった。

まずは、娘を寝かせる為、3番目の弟と、その彼女が、担当した。
ダンナと私は娘を電動ラックに乗せ、仮眠をとることにした。

ダンナはすぐにグガガガと、大いびきをかき始めたが、
私は娘がやっぱり泣いて眠れなかった。

そして、私たちが通夜守りの時間になった。
その頃になって、ようやく娘は眠ってくれた。

私はダンナを揺り起こした。
「ちょっと、交代の時間だよ。起きて!!」 「うーーん、分かった・・。ムニャムニャ・・。」 
そう言いながらも、ちっとも起きない!!

どんなにゆすっても、叩いても、すぐにまた寝入ってしまった。
「ちょっと!!アンタ、自分のお父さんほったらかすの!!」 
しかし、ダンナは自分の父より睡眠欲を選んだ・・・。(この!!親不孝者!!)

仕方なく私一人で、お父さんの通夜守りをした。
義父とは、あまり話したことがなかったので、この時初めてまともに話をした。
ただし、一方通行だったが・・・・。生きている時もっと話したかった・・。

翌日、葬儀が、行われた。
またまた、弔問客であふれかえり、室内は線香の煙で充満した。
それで、娘を連れている私は出口付近に座らされた。

なんだか、孤立していて寂しかった。私も義父をきちんと見送りたかった。
しかし・・。火葬場では、忙しさが一変した。

1人のおばさんが「嫁はお茶くらい入れなさいっ!!」 と激怒したからだ。
私はあわてて、娘を放置し、お茶をついで回った。

すると、別の所から、「ちょっと、泣いてるよ」 と言われ、「はーーい」っと娘の元へ戻った。
親戚は、私の育児にいちいち、口を出した。しかし、誰一人手は出さなかった。
そのすべてが私を逆なでし、イライラはつのっていった・・・。
最悪の2日間だった・・・。

 

《 交代睡眠 》 

私の精神は限界にきていた。

仕方ないので、ダンナに、「一日でいいから、夜中の世話を変わって」 と頼んだ。
ダンナは思ったより、嫌な顔をせず、あっさりと「うん、いいよ。」 と言った。
私は、「じゃ、よろしくね。」 久々に私達は同じ部屋で眠った。

「ぎゃーーーー!!ぎゃーーーー!!」 
やはり、娘が泣き出した。 
しかし、今日はダンナに頼んでいるので、私はダンナが目を覚ますのを待った。

・・・・・・・。  起きない!!
こんなにうるさいのに、ダンナはピクリともしない!!
「ちょっと!!起きてよ!!今日は、世話かわってくれるんでしょっ!?」
私は、布団の中で、ダンナの足を蹴っ飛ばした。

「んん??ああ、泣いてるねぇ・・・。ふぁーーーわああ・・・。」
ダンナはノソノソと起き出し、台所に向かった。
私は、安心して、布団に潜りなおした。(喜) そこへ・・・・。
「ねえー、ミルクってどうやって作るの〜〜?」(え!おい!?)

「!!」 なぜ、今聞くんだ!!(怒) なぜ、起きてるうちに聞いておかないんだ!!
ダンナの要領の悪さに腹を立てながらも、仕方なくミルクの作り方を指導した。
「もう、大丈夫だから、寝ていいよ。」

「分かった、じゃ、大変だけど、頑張ってね。」 (一応気を使って優しくした。)
私は布団に潜り込んで、久々の睡眠をむさぼろうとしていた。

娘は、ンクンクいいながらミルクを飲んだ。そして眠ってしまったようだった・・。
「ねえ、寝ちゃったけど、ゲップさせないでいいのかな??」
私は、ダンナにまたもや起こされた・・・。(だから、起きてるうちに聞いとけって!!)

結局、その日も睡眠をとることは出来なかった・・。
娘が泣いても、ダンナが全く起きなかったからだ・・。 さらに、陣痛の時と同じように
「起きてるんなら、自分でやってくれよ!!」 とまた逆ギレされてしまったのだった・・。

仕方ないので、ダンナが深夜1時まで娘の面倒を見る。そこから、私が朝まで
娘と付き合うという、交代制を編み出した。しかし、寝つきの悪い私は、深夜1時まで
布団の中でしっかり起きているのだった・・・。

  


 
《 かえってきた悪魔 》

もうすぐ、1歳になろうとしていたある日。またもやあの悪魔が帰ってきた・・。
そう、『 夜泣き怪人、娘 』 だった・・・。当然夜泣きする時期ではあるのだが、
今回は私の心が変わっていた。夜泣きするのに慣れてしまっていたのだった・・。

「泣いてるうちは死なない!」 などと思ってしまい、「ギャーギャー」 と泣き叫ぶ娘に
「うるさいよ、お母さん眠たい。」 と言って、軽くあしらった。かえって、それが良かったのか、
娘は意外とすんなり泣き止んでくれた。

そうか〜、あの時もこうやっておけば、育児ノイローゼにならずに済んだのか・・。
しかし、今回は寝ぼけつつ、泣いてる様な感じだったので、それで済んだのかもしれない。

この1年、色んな事を経験した。
生まれてから、2kgほどしかなかった体重も、別名 『千代大海』 と言われるほど太ったし、
私も悪ノリして 「親方」 と呼んでみたり(笑)

離乳食を一生懸命作ったのを 「ぶ〜」 っとされてキレたり・・。(怒)
大量のうんちょを背中まではみ出させてた事もあった。(おいおい、早く気付いてやれよ!!)
暑い時も、寒い時も、ベビーカーを押して散歩に出かけたりもした。

髪の毛が少ない子で、どこへ行っても 「かわいいボウヤだこと」 と言われ、憤慨した事もあった。
本当に色んな意味で生活が激変した。こうやって私も親として育っていくんだな、と思った。
未熟なお母さんだけど、これからもよろしくね!娘。』
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