■「デブ」と生徒に連呼、拳で顔殴る 横須賀の中学教諭
(朝日新聞デジタル - 12月23日 07:21)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4355555
暴行や傷害事件が、起きた場所によって呼び名が変わる。
おかしなことだが、所謂「監獄実験」の影響は、当の教師や生徒だけに及んでいるわけではない。
事件を外から眺めている側もまた、「教師と生徒」「保護者と子供」なる「関係性」を「考慮させられてしまう」のだ。
そこが学校であろうと、家庭であろうと、暴力そのものが疑いのないものであれば、ほかの場所で起きたことと同様に見なさねばならぬはずだが、そうしないのは、人々が、潜在的に「権威者」 「権力者」「看守」側に「立たされてしまう」からなのではないか。
「殴られるのは、殴られる側に何らかの過ちがある」と。
自分を振り返ってみる。
自分は、自分に暴力を振るった人間をすべて覚えているが、彼らの暴力が 正当であったと感じたことはない。故に、反省もない。
「体罰容認派」がいうところの「教育的効果」は、少なくとも自分には及んでいない。
体罰によって、態度が変わるとしても、それは「恐怖政治」であって、北朝鮮の人民が大人しくしているようなものだ。
漱石の言い方を援用するなら、暴力を受けた側の変化は「外発的開化」であり、「皮相上上滑り」なものということだ。
自分の誤謬を暴力で矯正されたいなどとは塵ほども思わない癖に、立場が下の者に対してはそれを正当化するというのは、卑怯というほかない。
しかしながら、軍隊的、体育会的な脳髄の持ち主には、こんな指弾は届くことはあるまい。
卑怯者は、弱者を踏みつけることが至上の快楽であり、かつ逆らう者へは反論でなく鉄拳制裁というのが性癖だからである。
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