死についての話なので、私は西洋哲学研究者としてまずハイデガーの議論を紹介し、それに対するオスカー・ベッカーの批判(仏教的!)も紹介した。後者はほとんど最近谷口くんから得たセカンドハンド・ノレッジによる紹介。谷口くんが作った(命名した?)「オスカー・ベッカーの三角形」もより簡略化して紹介。
しかし、これと勝手に〈私〉(山括弧のわたし)の話とを強引に結びつけ、それをさらにM. ブランショ風のハイデガー批判とむすびつけ、最後のブランショ風の議論(私は死ねない)をアキレスとカメのパラドクス(アキレスは亀を追い越せない)に結びつける、というかなり強引な展開。最後アキレスとカメはほぼ青山くんの『タイムトラベルの哲学』の解釈による。
こんな強引な展開にもかかわらず、〈私〉の存在に基づいてブランショ風の議論を解釈すると、アキレスとカメのパラドクス(植村・青山風の解釈における)と同じことになって、「〈私〉は死ねない」という結論に本当にいたると思います。
もし私が〈私〉でしかなければ私は死なないでしょう。
裏話でなく表話としては、毎度のことながら、一照さんと良道さんがお二人とも(ちょっとニュアンスは違うけど)私の〈私〉に関する議論に強く賛同されるのには驚きます。そしていつも心配になる。仏教のお坊さんなのにいいの?と。というわけで、いつも私がいちばん怖気づいているような展開になるような気がする。
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