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2016年07月29日17:00

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叶水 夏の学校2016

在学中はなかったが、その後、職員の修養会および同窓生の研修会として夏休みに開催されるようになった催し物【叶水夏の学校】。同窓生が家族連れで参加するので小学生、中学生対象の子供会も併設され、新入生獲得の機会にもつながっている。

山本校長先生が担当される基調講演のみ聴いておきたい、と実家へ。本来参加するはずの両親がちょうど所用で2人ともいないので、代理出席と銘打って潜り参加。

夏の学校2016 基督教独立学園高等学校講堂

開校式 山本精一

讃美歌2篇159 聖書 詩編4篇
開校の辞 山本校長先生
山奥の小さな学校にお集まりくださったことに心から御礼を。お一人お一人の深い求めがあるのだと感じています。本年のテーマ、何名かの職員とともに考えて参った。独立学園が日々の中で問われていること、その事を夏の学校で提示し、お一人お一人の現実の問題と重なること、この国、この世界への広がりの中で、今出会っている問題、その連なりの中、2泊語り合う時間がもたれる。

テーマ【閉じる心、と、開く心―私・日本・世界―】

は、独立学園(山本先生は基督教独立学園、とおっしゃってますが文中は省略形にしています)だけの専売特許ではない。生徒との対峙、心が閉じ、心が開かれる日常。閉じたり開いたりはどういうことなのか。閉じるを悪、開くを善、と一面的にはとらえない。いきることが持っているリズムの中でとらえる。開けばよい、開きっぱなしで良いわけではない。
時報と一緒にお送りしたパンフレットに安彦さんがつけたカタクリの写真。本日のオオガハスの開かんとする瞬間の写真。生き物として、植物が持つ健やかさ、野の花が朝露にぬれ開き、夕べに静かに閉じる、その何の狂いもない動き。植物の命のリズム。太陽と、大地と、水と、風と、様々なものとのつながりの中で、みずみずしくリズムを刻む。野の草花に本当に慰められ魅了されております。
融通無碍な命のリズム、それが深く閉ざされてしまう。表面的には開いているようで一番深くでは閉ざされ開かない。そんな私たちの命。ほかの人間たちとのつながりの中でリズムをきざむ。開く、閉じる。
思春期という諸君。大人となっていく困難さが対人関係に具体的に現れてくる。社会とのつらなりかたを深いところで感知している。学校で教師から、家庭で親から、メディアから反乱するあるべき人間。社会との深いつながりの中で生きている。若者にとって未来はどうなっていくか。楽しい未来、と単純にいえる若者は一人もいないだろう。社会の闇はおそろしく深い。不安、閉息感を感じていないはずがない。そういう中であらためて考えてみたい。本来の命のリズムを取り戻すためになにが必要であるか、その問いをめぐって夏の学校、ともに考えて参りたい。
この暑い中あつまりいただいて心より感謝。今年は去年に比べ一昨日までは涼しい。昨日から猛烈な暑さ。クールダウンしてくれる雨が降り始めました。体調の管理、健康に守られて三日間をともにすごしたいと思います。


講演一 司会 伊藤友子
讃美歌21 425(初めて歌う、妙な宗教終止で強引に終わる汗、歌詞は良い内容だが直接的表現で違和感<口語訳に古い人たちが感じてた思いかw)
聖書 エゼキエル書36:26、ルカによる福音書10:20−37(本当は30−37だったらしい)

「閉じる心と開く心」山本精一
テーマを選ぶ意図は開校の辞でお伝えしたので、ここではテーマについて立ち入ったことをお話ししたい。

率直に言って、開いている、閉じている、誰かと向き合えば誰にでも感じ取れる経験である。

相手が私に対して開いているか閉じているか、考えるまでもなく、開いていないことが誰しもに感じ取れることだろうと思う。開いてくれてない、出来事は、素通りできない。心のどこかに引っかかる出来事ではないか。これは何を意味しているか。いきなり結論。自分以外、出会う関係の中で、相手によって認められている手応え、その経験、私たち一人一人が立つときにものすごく重要な経験。何らかの理由で妨げられると、開いてない、見過ごせない出来事として迫ってくる。認められることのできる経験も決定的に重要。けれど、人の目を期にしていきる生き方とは違うし、認められる方法を探してけりがつく問題ではない。関係の中で、認められる経験の決定的な重要さ。相手の一人一人から認められる経験を拒まれている。つらい経験。決定的な出来事。

認められる。このあとしばらくは、「承認」と読み替えていきたい。

認められない、他者からの承認を拒まれている。鼻先であしらえる軽い問題ではない。苦痛に満ちた経験。情動、感情をまるごと巻き込んだ所で起きる経験。
具体的に承認を拒まれるとはどんな経験か。たとえば軽視、無視、差別。
シカト、かよ。軽視、軽くみられ、無視され、差別されたとき、差別は社会的な構造の問題でありますが、日本の学校が持つ原罪的なあり方、学校カースト、という言葉を社会学者が使い始めたのが、今年の新入生も使っていた。学校の中、学力、スポーツの力、家庭の経済力、日本にはカースト制は無いはずなのに、現場にある生徒たちが実感を持って使っている。私たちが生きているこの時代が、承認、において大きな歪みを抱いていることがわかる。
軽視、無視、は暴力をはらんでいる。腕力ではないにしても、とても深刻な暴力性をはらんでいる。承認を拒まれる中で。

勝ち組、負け組、という言葉もポピュラーになってしまっている。負け組になるな、と教師から親から押しつけられると、まさに社会の中でのカーストで、漏れ落ちるな損するな、と押しつけられる。子供が苦しむと同時に押しつける父親、母親にも問題があるのかもしれない。
承認が拒否される暴力性、恐怖する。おそれる。生徒だけでなく大人も。関わり合う、コンピューターでつなげられているコミュニケーションの形。デリートできるコミュニケーション。メッセージを受けた側はデリートできる。ほとぼり冷めてから返事を出してみたりする。生身のコミュニケーションを離れたところで、自分のさじ加減でコントロールすることをやりつけている。百%コントロールしていく、相手とのきしみ、葛藤を、リスクを無くしていく。企業も学校も二言目にはリスクマネージメント。コントロールされることが自分にとっての安心さにつながる。コンピューターによってつながる安全さ。

そうした中で、直に、つながりあうこと。生身同士がつながる出来事は私たちに不安を生まないはずがない。無視されるんじゃないか、軽視されるんじゃないか、差別されるんじゃないか。このリスクマネージメントが骨の髄まで染み着いたとき、すべてのコミュニケーションをコントロールする、音を立てずに私たちの人間関係を浸食し始めている。

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これはある生徒が語ってくれたこと。他の人と関わり合うことは本当に厄介。後輩なんて手の着けられない相手。入学したときは他者がすべてそういう相手。その時代は、自分の中にタンスをつくって、引き出しの一つ一つに関わり方を畳んで仕舞っていた。新しい情報を、パソコンのフォルダーに収めている、そのように他者との関わりを整理する。そうしないと一杯一杯、飲み込まれて大変。特例、例外ではない。人間同士の関わりの中で広がっている。しかし、その生徒は、今は、そういうやり方の限界も感じ始めている、と話してくれた。自分にとっての他者をタンスに仕舞い込む。一人で生きてきた。しかしそれはとても怖いことです。正直、私たちの時代を射抜く言葉であると感じました。徹底的にテクノロジーかされている時代。それをこの生徒は証言してくれた。
日常、人とともにいきる現場では、茶飯事。ひっきりなしだから、我々は慣れてしまっている。しかし、慣れてはいけない。様々な他者によって返ってくる、応答という可能性が完全に遮断されてしまった場合。ライン、メイルなど。既読がつかないと戦々恐々。他者にある応答があり得るという関係、応答しないと、なんだあいつはラインからハジいてしまえ。ある哲学者がそんな状況をこう語った。

見棄てられた境遇。
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なんて大げさなと言うかもしれない。今から50年前に見抜いて語られていた。どんなテクノロジーが入り込んでも、深いところで応答しあえる関係を断ち切られていたら、それは、見捨てられた環境なのだ。軽視とは、真剣に受け止められないということ。近しい関係の中で誘惑として起きやすいこと。そんなものか、と決めつけられる。承認が剥奪されていること、喪失されていること、こういう場面に巻き込まれたとき、自分もなりうることをみる。そこには必ず痛み、悲しみ、憤り、深いところの否定する感情の問題がある。承認が奪われると必ずこの感情の問題がついてくる。心の一番深いところに起きてくる問題。

ある作家を思う。ミヒャエル・エンデ、と、その作品『モモ』に書き残してくれた。ちょっと長くなるが一節を読み上げたい。背景、ボロボロの衣のモモにすばらしい力があった。聞く、力。彼女のところで救いをえて皆帰って行く。ある時、どうも様子がおかしくなった、その場面。都会に住み育つ子供たちが集まってきた

「ジジが子供たちに問いかける、おまえたちのこと、話してくれないか。子供たちは黙りこくり、よそよそしく、暗い顔になった。そのうちに一人がやっと話す、ぴかぴかの車を買った、大人になったら僕も買う。少女は、みんな忙しいから映画をみるお金をくれる、それはイヤだからここにきてお金は貯めて七人のコビトの所に行きたいの。パパはお話をしてくれない。親父もお袋も忙しくてかまってくれない。お小遣い前よりたくさんもらってる、それはな、俺たちを厄介払いするためなんだ。でもな、大人たちは大人自身のこともイヤになり始めている。とってもたかいラジオを買ってくれたそれは僕を大事にしてくれるからじゃないのかい?シクシクなきはじめる。」

トランジスタラジオ、車、旅行、映画、レコード。見事に人間不在になっていく。そのかわりに物品が、メディアが、子供たちを封じ込める。見捨てられた存在、子供たちをそう作り上げる。これはでっち上げではないでしょう。すでに起きていたことかもしれない。予言かもしれない。いまの続き

「本当な誰もが見放された子供だと感じていた、泣きたかった」

大仰と思うだろうが、こんなに身近で起きている問題である。承認、もちろん議場での堅苦しい手続き、それとは違います。

承認には3つが必要となる。

1自身の存在に気づくこと
目の前の存在に気づくことが重要である。それが承認の第一歩。

2肯定
目の前にいる存在を深いところで肯定する。避難、侮蔑の対象、決めつけ、切り捨てるのでもない。肯定する。承認の中でもっとも大事なポイントである。次に深く関わっている

3受け入れる
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三つはバラバラではない。一体となってやってくる。いくら、よく知っている、と言っても、そういう意味の知っている、は、この承認では妨げになる。知っている、ことの手前で必要なこと。本当に深いところで相手に対して関心を持つこと。知識で終わってはならない。存在そのものに関心をもつこと。聖書が長かったのは本来30節から、が字が汚くて20節になってしまっていた。お詫びします。よきサマリア人、最初の2人。事実は知っている、見ている、道の向こうを通っていく。知っている、の躓きが彼らにある。私にある。もっと手前に関心がある。サマリア人は根本的に違う。関心、によって、感情がどう発動するか。哀れに思い、近寄る。心の中が激しく動いた。生き生きと他者との関係の中で感情が動いた。そしてイエス様は最後に
行って、あなたも同じようになさい
という。誰に心を開いたか、という問いは無意味。はっきりしている。本当に問うべきは、祭司、レビ人が心を開いていない、こと。そこに私たち自身を見れるか、時代の心を見うるか。私たち自身をそのままに写す、きわめて重要な登場人物が祭司とレビ人です。

裏を返せば、関心をもつ、無関心ではいられない。承認。そこで思い浮かぶ人物。実在ではありません。車虎次郎。ふうてんの寅さん。我が寅次郎、と言いたい。無関心ではいられない。たまに行きすぎるが故のドタバタ。またあいつはバカだねえ、というおいちゃんの、一番の根っこに受容している。失敗に対して怒ったり泣いたりするけれど、心配でならない。実の親でもないおいちゃんおばちゃんが承認していること。承認された寅さんを思わずにいられない。私の趣味の押しつけですから見たくなければみなくて良いですよ。

目の前の存在に気づく、肯定する、受け入れる。そうしたときエゼキエル書の言葉、11:19と同じ言葉の反復ですが、「石の心をとりのぞき、肉の心をあたえる」
人間の様々な感情がわき起こる場所。おまえたちの中に新しい霊、をおく。息、風、という意味のヘブル語です。命を本当に生き生きとされる。息、命ある我々の息、は、吐き出し、吸い込む、まさにリズムです。だから、呼吸が乱れる、と、呼吸だけの問題でなく言う。息が乱れる、呼吸だけでなく、お互いがずれている。これが野の花から学ぶことです。息苦しくなる、息詰まる経験であります。
エゼキエルの、石の心、肉の心。かたくなな、開くと言うことを拒絶し続けるあり方。それに対し、肉の心、関心を与える、目の前に気づき甘受するそういう心をエゼキエルはイスラエルの民と神との契約の間で考えている。肉の心をいのり願うこと。認められたい、人目を期にすることとは別に考えなくちゃいけない。命のリズム、吸い込み、ゆっくり吐き出す、そういう他者との関係の中で、軽んじられず、認められる喜びがある。エンデが言う、どんなピカピカのものを買ってもらおうと報われない。独立独歩だれにも助けられない、と、言うには、そう言えるまでにどれほどタップリと愛され承認されていたかを忘れてはならない。
承認、寝ても覚めても承認、それでいいか、それも違う。
腫れ物にさわる、承認を乱発する、それは浅いレベルの承認でしかない。感情の深い次元に向けて私たちが気づこうとしているか。それを踏まえない限り浅い承認、お世辞ごっこでしかない。深い承認があるなら、浅い承認なんて無くたって生きていける。
浜松の聖隷クリストファーでの礼拝。チャプレンの担当する困った生徒。寝坊して成績があがらない生徒。母親は蹴飛ばして起こそうとする。それを知って話したこと。断崖絶壁に君たちがいる。隔てた向こうに誰かが、ここ通ってこれるから、と君に必死で言う。こちらには全く見えないけれど、そこに端がある、と言われる。圧倒的多数は渡らない。というが、たった一人渡る、と言ったのが困った生徒だった。橋がある平気だ、って言うのが母ちゃんだったら、俺は渡れる。という。深い承認。蹴飛ばす愛情、深いところで肯定してくれていること、百回説教を聴くより具体的な関係の中で彼は信じられる。蹴飛ばせば良い、ではないですよ。情動において向き合う親。深いところで、おまえ良い奴、と思えているか。この世ではマイナスであっても、受容という現場においては背景でしかない。深いところでの受容、寅さんファミリーの捉え方。受容の型、なんて思った瞬間に息苦しくなってしまうが、受容をもたなければ承認はいきてこない。

ヘビイレインというイギリスの医師、患者に看護師が一杯のお茶をさしだす。患者が言う、誰かが私にお茶をくださったなんて、生まれて初めてです。認識、という知のレベルであれば、そんなの嘘だろう、何度でもあっただろう、と言いたい。けれど、看護師が差し出した気持ちが、深い承認であったからこそ、生まれて初めての一杯のお茶に彼が出会えたのである。ある人間が他人にお茶を差し出す、それほど容易いことではない。ティーセットを見せびらかすためのお茶かもしれない。根っこにあるのは、思惑があったら機械的で、存在への認知は欠片すらない。お茶が出ても、この私、に、出てきたものではない。気づいていない存在に気づけている、そういうお茶なら、これは初めての一杯です、と受け取られる。
関心、承認、受容、気づき。熟知した言葉です。言葉は熟知しているけれど、どのくらい経験しているか。堅く閉じた心の中で目の前の存在が呻いているか、それに気づき始めたとき石の心ではなく肉の心で向き合える。どこにもマニュアルはない。歴史の背景が違っている。本当の命の泉へ戻っていく、深いところでの沈黙をはらんだ肯定。そこでの次の課題は、他者、という言葉です。おそれがある、関係が、と他者とセットで聴かれ、一方、友達、という言葉が縁遠くなっている。そういう意味でモモを読み返したらこの場面に出会った。見放された子供だと感じていた、すぐ後の場面です。

パオロという男の子がモモにいう。「ここの人たちは神様から時間を盗んでるグウタラだ。君たちがいるからほかの人たちは時間が足りなく忙しくなっちゃう。だから、ここにはもう来てはいけない、ってパパもママも言うんだ」ジジがいう「伝染性の気が変になる病気があるに違いない」モモ「けれどそうならあたしたちは友達を助けてあげなきゃ」

この人たち、あなたたちみたいな人、あたしたちの友達

モモによってこれらの言葉は明らかに使い分けされている。私たちの日常においても、本当の友達、まで入り込まないで他者っていっている。そんな面倒な関係、と、遠ざけようとしている。しかし、肉の心をくださいと祈り生きるときに、神様はきっと本当の友達を与えてくださる。教育はそれを与えることを求められている。同様に家庭もそれを求められている。祈ります。

讃美歌2篇1番をともに


森山徹くんと
フォト

休憩時間に独立学園の48期 森山徹君が子連れで参加しているので、声をかけてくれて話をする。自分が学生時代にお世話になっていた東京の高橋聖書集会の日曜学校、今井館子供会の教え子。開口一番、バイクは乗ってますか、と言われてしまった笑。つくばから単車で日曜ごとに目黒まで通っていた印象がよほど強烈だったらしい。彼の在学中は愛真で教えていた時期に重なっていて、休みの時にしか帰省しないので出会えておらず、彼が小学生、こちらが大学生、の頃以来、ほぼ30年ぶり位の再会。面白いことにアカペラの方で繋がりが出来ていて、大阪に共通の知人がいる。大阪での再会を約す。
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