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2016年05月01日13:52

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山名氏歴史・考察記事1

アルバム「山名城/山名氏」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099237721&owner_id=32815602

●山名氏──
本姓は源氏。
清和源氏──河内源氏棟梁 鎮守府将軍 源義家4男、源義国(荒加賀入道)を祖とする新田氏の庶流。(足利氏も源義国が祖先。)
義国嫡男 新田義重(家祖)の庶子 三郎義範(または太郎三郎)が、上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現 高崎市山名町周辺)を本貫とし、山名三郎を称したところから、山名氏は始まった。
※源義国→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2061684133&owner_id=32815602
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043719941&owner_id=32815602
(河内源氏、清和源氏について記した記憶はあるのに、どこに記したか覚えていない……|||||||/(° × °)\|||||||)
改めて記した「大光院」→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2204013118&owner_id=32815602

●山名三郎義範──
生没年不詳。
平安期末〜鎌倉初期。新田氏一族の武将。
通称 三郎(または太郎)。
新田義重庶子。次男? 山名氏家祖。
子に重国、重家。
※他説、父は源(矢田、足利とも)義清、生母が義重娘とも。

上野国多胡郡山名郷を与えられ、山名氏を称す。
1175年〜1177年頃、豊前の宇佐八幡宮を勧請、山名八幡宮を建立している。
他の兄弟と比べると新田荘の所領が分与されておらず、元服後? の所領分与においてもほんのわずかしかない。新田氏一族(新田氏庶流。兄弟5人)の中で身分低く扱われていたか冷遇されていたと考察される。
治承4(1180)年8月、源頼朝挙兵。従軍命令に従わなかった義重は不興を買い、鎌倉幕府成立後冷遇された。しかし義範は挙兵の報にすぐさま参じたため、「父に似ず殊勝」と褒められ源氏門葉として優遇された。
※源義清→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%B8%85_(%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%88%A4%E5%AE%98%E4%BB%A3)

治承8(1184)年2月、源義経率いる平氏追討軍に従軍。
文治元(1185)年8月、伊豆守任官。
文治5(1189)年7月、奥州合戦従軍。
建久元(1190)年、頼朝の上洛に供奉。
建久6(1195)年、再上洛にも供奉。
東大寺供養のおり頼朝に近侍し、頼朝嫡子 頼家の参内にも従った。
◎源頼朝→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000000913737&owner_id=32815602

●山名氏3代? 重国(義範嫡男? 次男? 義節嫡男?)──
文治元(1185)年10月、源頼朝が父 義朝を弔うために建立した勝長寿院の落慶供養に随兵。七列中六列目に列している。

※鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したが、以後、歴史の表舞台にはほとんどあらわれない。
(里見氏・大井田氏・大島氏ら新田氏庶流とともに新田氏を惣領として仰ぎ、領地経営に務めていたものと想像される。)
源氏将軍が3代で断絶したのちは、執権北条氏が幕府の実権を掌握していった。鎌倉時代半ばを過ぎたころには得宗家の専制政治となっている。開幕に尽力、活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落させられていた。源氏一門で勢力を維持していたのは足利氏のみで、新田氏は逼塞していたと考察される。

1、山名義範
2、山名義節
3、山名重国
4、山名重村
5、山名義長
6、山名義俊
7、山名政氏
8、山名時氏

※山名氏勃興の時氏は、「元弘より以往は、ただ民百姓のごとくにて、上野の山名といふ所より出侍しかば、渡世のかなしさも身の程も知にき」と“難太平記”(今川貞氏)に記されているが(本人談?)、時氏の母(山名政氏室)は、中級公家であった左衛門尉 藤原清房の次男で、上杉氏家祖 上杉重房。山名氏は武家としての地位は決して低くなかったと思われる。
※足利尊氏・直義兄弟の母 上杉清子は、母の従姉妹。


●山名政氏──生没年不明。
●山名小次郎時氏──
嘉元元(1303)年または永仁6(1298)年〜建徳2年/応安4年3月28日(1371年4月14日)。
戒名、光孝寺殿鎮国道静居士。
官位、正五位下・伊豆守、弾正少弼、左京大夫。
幕府役職、室町幕府侍所頭人、引付頭人、伯耆・出雲・隠岐・因幡・若狭・丹波・丹後・美作・紀伊・和泉・備後守護。
子、師義、義理、氏冬、氏清、時義など。

討幕時、当主 山名政氏は惣領 新田義貞に従って戦っていたとされる。
(政氏・時氏の動向について明瞭な史料はない。)


◎新田義貞──
元弘元(1331)年、元弘の乱(元弘の変)。後醍醐天皇が討幕運動を開始。
元弘3(1333)年5月8日、新田義貞 上野国生品明神で挙兵。
同日、新田荘の北西、上野国守護所 長崎孫四郎左衛門尉を陥れ後顧の憂を断ち、利根川を越えて南進。
11日朝〜、小手指ヶ原の戦い(所沢市小手指町)。
15日未明〜、分倍河原の戦い(府中市)。一時敗走するも16日早朝これを破る。
同日、関戸の戦い(多摩市)。
18日早朝、村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂などの50ヶ所余に放火のち、義貞本隊は化粧坂切通し、大舘宗氏・江田行義の部隊は極楽寺坂切通し、堀口貞満・大島守之の部隊は巨福呂坂切通しから鎌倉へ進攻。いずれも敗退し、極楽寺坂では大館宗氏が戦死した。化粧坂は脇屋義助に任せ、義貞は指揮系統を失った大館軍の指揮へ移った。義貞は極楽寺坂の北西、聖服寺の谷に陣を構えた。
戦いは一時膠着する。
21日未明──各切通しの防備は万全、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木(さかもぎ)が、海には軍船が配置されてこれを通行する軍勢を叩けるようになっていた。しかし──、義貞軍は稲村ヶ崎の突破に成功する。(※侵攻には諸説。)背後をつかれた形となった幕府軍は、大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門ら、そして執権 赤橋守時(北条守時)が戦死。
※稲村ガ崎→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1434967078&owner_id=32815602
※化粧坂→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000043882024&owner_id=32815602
※巨福呂坂→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000079758893&owner_id=32815602

由比ヶ浜の戦い。新田軍に挟撃され、幕府要人が数多戦死。
22日、東勝寺合戦。北条高時ら一族幕閣女子供およそ800人が自害。(※この人数は異常。まちがいなく誤りないし誇張だろう。)
鎌倉幕府滅亡。
◎関連記事――
※北条時頼・得宗→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000026193839&owner_id=32815602
※北条時宗→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000026200140&owner_id=32815602

建武元(1334)年、後醍醐天皇による建武の新政(建武の中興)がはじまる。
鎌倉を征圧した義貞は、後醍醐天皇入洛の報せに上洛。新田氏庶流らもこれに従った。(義貞は鎌倉で発生していた武家同士のゴタゴタから逃げたとも。)
建武の新政は武士団の強烈な反感を買った。このとき鎌倉幕府討幕の勲功一等の足利尊氏が持ち上げられる。
※元弘3/正慶2(1333)年8月5日、すでに従四位下、鎮守府将軍・左兵衛督、30箇所もの所領を与えられていたが、従三位昇叙、武蔵守兼任となる。そして、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した。

◎足利尊氏(足利高氏)──
建武2(1335)年、中先代の乱勃発。西園寺公宗と北条泰家の陰謀は失敗に終わったが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で残党の蜂起が相次いだ。
7月、信濃で諏訪氏の支援を受け蜂起した北条高時の遺児 時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、鎌倉へ侵攻、足利直義を追い出しこれを占拠せしめる。
この戦争で新田氏庶流 岩松経家、足利氏与騎として参陣していた鳥山氏盛・宗兼・氏綱、大舘時成らが戦死。
このころ京では、足利氏と宮方(南朝勢力)の政争が行われている。新田氏庶流のなかからも当然新政に反感を抱く者がおり、惣領がその後醍醐天皇に付き従ったままであったことから家を離れる者も出ていた。大舘氏、鳥山氏一族は訣別、戦死した岩松経家の後継は尊氏から所領が交付されたことにより主従関係となった(元より足利寄りであったという)。
※これにより新田義貞、足利尊氏の対立は顕在化する。

8月2日、尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐へ下向(やむなく征東将軍職を与えている)、相模川合戦で時行を破り鎌倉を復旧した(8月19日)。
直義の意向もあって、尊氏は鎌倉に本拠を置いて武家政権創始に取り掛かった。
尊氏は新田氏一族の所領を北条時行討滅に武功のあった自身の配下らへ褒賞として分与。義貞が国司を担当する上野国の守護職は上杉憲房に、新田氏の本領 上野国新田荘は三浦高継に与えている。
鎌倉鎮圧後、朝廷から再三帰京命令がきていたが北条氏残党の動きがいまだ継続していると従わず、その残党をおおむね鎮圧してもなお義貞、宮方らが讒言を吐いていると訴え、鎌倉に居留した。
尊氏は義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、11月8日、後醍醐天皇は尊氏・直義討伐の宣旨を下した。尊氏を逆賊と認定、尊良親王を擁し義貞を大将とする尊氏討伐軍を結成する。さらに、奥州からは北畠顕家が南下を始めていた。
尊氏は赦免を求めて隠居を宣言、寺にひきこもってしまった。(鬱。)

義貞は尊良親王を奉じ、脇屋義助、義治、堀口貞満、千葉貞胤、宇都宮公綱などを率い、東海道を鎌倉へ進軍。軍勢は10万以上。途中、東海道と東山道とへ軍勢を二手に分けている。
東海道、東山道、陸奥の三方向から鎌倉を突き、足利兄弟を討ち取るという作戦になったが、この大規模な軍勢は統率を欠いていたために連携が取れず、足利軍を挟撃できなかった。早過ぎたり遅過ぎたりと、足利軍に有利な戦況を作ってばかりだった。
(形式上の総大将である尊良親王の周辺には公家衆が蔓延り口出し。北畠顕家は従二位鎮守府将軍、従四位上の義貞は立場上顕家に指図できなかった。)

11月25日、矢作川の戦い(岡崎市)。新田軍勝利。
手越河原の戦い(駿河区)。新田軍勝利。
朝敵とされたため新田軍に投降するものも少なくなかった。
12月11日、箱根・竹ノ下の戦い。
抗戦を続ける直義・高師直(こうの もろなお)など足利軍が各地で劣勢となると、直義ほか武将らの説得もあり尊氏は天皇に叛旗を翻す決意をもつ。(「直義が死ねば自分が生きていても無益」と宣言したとか)。
後がなくなっていたため、ほぼ総勢力を持って臨んでいた足利軍。両軍ともに士気が低かったところへ、尊氏が前線に戻ってきたことで形勢が逆転する。
箱根山南北の道2本(足柄峠・箱根峠)に展開した軍の運用と指揮系統の有無が勝敗を分けた。
官軍の斯波高経、土岐頼遠らが勝手に進路を変えて行軍(箱根峠配置のはずが足柄峠へ)。
12日、足柄峠・竹ノ下にて官軍 大友貞載と塩冶高貞が尊氏軍に寝返り、義助軍は敗走。箱根口の戦闘で勝利して進軍していた義貞だが、この報から退路を断たれるおそれが出たため撤退をはじめる。これを見て近江守護 佐々木道誉も尊氏軍に寝返り、官軍は総崩れとなった。
13日、官軍は潰走する。

※この合戦時に山名政氏・時氏親子は足利尊氏へ降ったとされているが、その時期は明瞭にない。

12月30日、義貞帰京。
建武3(1336)年正月、尊氏は京都へ進軍。(この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正当性を得る工作をしている。)
洛中洛外で小競り合いが始まる。
10日、淀大渡の戦い。山陰山陽四国から尊氏へ合力する軍勢(細川定禅ほか)が続々加わる。
11日、尊氏入洛。
この合戦に敗れた後醍醐天皇は比叡山へ退いた。義貞もそれに供奉する。
まもなく、奥州より北畠顕家が上洛し形勢が逆転した。
13日、足利軍が駐屯する園城寺を攻略。
16日、足利直義の軍勢に正面から突撃を敢行して蹴散らし、さらに高師直の軍勢をも破り、余勢を駆ってそのまま洛中へ攻め込んだ。
しかし、直後の市街戦において細川定禅の知略に敗れ撤退する。
20日、義貞は東山道を引き返してきた尊良親王の軍勢2万と合流。
28日、糺河原合戦。義貞は楠木正成、北畠顕家、名和長年、千種忠顕らと共に足利軍へ総攻撃を開始。
30日、尊氏は京都を追われ、後醍醐天皇が京都へ返り咲く。だが、足利兄弟ほか有力武将の首級ひとつ挙げることができなかった。
2月3日、足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、再上洛の機会をうかがった。
11日、豊島河原合戦(池田市・箕面市)。これに大敗した足利軍は、播磨国 赤松円心の進言で九州へと落ちる。(九州へと落ち延びる途中、尊氏は光厳院から新田義貞の討伐を促す院宣を得る。この院宣を根拠に、各地の武将へ義貞討伐に協力を促した。)
※山名親子は九州へ随行している。

この合戦のち、義貞は正四位下へ昇叙。左近衛中将 兼 播磨守任官。
義貞は播磨攻めを開始。江田行義と大舘氏明が先発隊、病で臥せったため出陣が遅れた義貞は3月30日に播磨国前線に着陣した。

◎赤松円心(赤松則村)──
播磨国 赤松円心は、尊氏討伐軍6万騎を白旗城で迎え撃った。円心は則祐を配した城山城などの城郭を各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いに城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦を行った。(白旗城は北方の美作・但馬方面、西方の備前から支援が可能という地理的強みを持っていた。)義貞率いる討伐軍は、円心以下2千の兵が立て籠る白旗城を圧倒的な兵力を持ちながら攻めあぐね、3月から5月まで50日以上釘付けにされた(足止めされた)。
※関連記事(このネタとは程遠く。血縁・子孫記事。)
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000086166529&owner_id=32815602
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2006517482&owner_id=32815602

足利尊氏、再興を目指し東上開始。
建武3/延元元(1336)年3月2日、多々良浜の戦い。快勝。
5月1日、尊氏厳島上陸。
義貞播磨攻め中止。尊氏を迎え撃つため安芸へ進軍。兵は疲弊しきっていた。
18日、福山合戦。尊氏快勝。新田軍は摂津まで退却。軍離脱が相次いだ。
後醍醐天皇は楠木正成に摂津国で足利軍と戦うよう命じ、援軍として差し向けた。
24日、義貞、正成会見。(ふたりは不仲であったという考察が強い。)
25日、湊川の戦い。総大将 足利直義、西国街道進軍。北から遊撃、少弐頼尚。東から搦め手、斯波高経。瀬戸内水軍、細川定禅。
義貞は退路を絶たれる危険を感じ即刻退却、楠木軍は四方を包囲され孤立。奮戦するも壊滅。正成は弟 楠木正季ら一族とともに自害して果てた。
義貞は生田の森を背にして足利軍と激突。「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」と記されるほどの激戦だったと見られる。しかし、兵力差は歴然で官軍は大敗を喫した。
(義貞は求塚において源氏重代の鬼切、鬼丸の太刀を振るって奮戦、みずから殿軍を務めて味方を都へと退却させる。この窮地に小山田高家が駆けつけ、身替わりとなって義貞の命を救ったと記す史料もあるが、史実ではないと蓋然的判断がもたれている。※義貞は戦死を免れ坂本まで逃げ延びている。)
※関連記事
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※山名時氏はこの合戦で戦功を挙げている。

27日、後醍醐天皇ほか宮方、ふたたび比叡山へ。
29日、尊氏上洛。
6月14日、光厳上皇を奉じて東寺へ入り、後醍醐天皇、義貞と対峙。
6月〜8月、京を巡り小競り合いが展開される。
楠木正成はすでになく、北畠顕家は妨害により上洛困難、この小競り合いで名和長年、千種忠顕が戦死。
直義は、比叡山、坂本への糧道を断ち、宮方を追い詰めていった。
※8月17日、尊氏は「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。この頃また鬱になっていたと思われる。
尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形で和議を申し入れた。
10月9日、後醍醐天皇はこれに応じる。新田義貞を事実上切り捨てた。
義貞は尊氏との和平をこの日この直前まで知らなかった。一族の江田行義、大舘氏明はこれを聞かされ諸事対応している。このふたりの行動を怪しんだ家臣 堀口貞満が知覚し、義貞へ報告した。義貞、新田一族、軍勢3000は怒髪冠をつき、後醍醐天皇を叡山にて包囲。「多年に渡る忠節と功績の臣をなぜ見捨てられるのか」と抗議。後醍醐天皇は新田一族のこれまでの働きを労い感謝を伝え、これは計略であると取り繕った。
この行為を認められない義貞は、恒良親王、尊良親王を推戴して北国へ下向させてほしいと提言。これを呑んだ後醍醐天皇は、北方へ落ちる義貞、恒良親王、尊良親王の軍勢と、後醍醐天皇に付き従う軍勢のふたつに分裂した。(この事件は創作の疑いもあり、見方も義貞の叛乱などいくつか挙げられている。しかし、宮方がこの日を契機に分裂したことは史実。)
新田一族の大半は義貞に随行したが、大舘氏明、江田行義、宇都宮公綱などは後醍醐天皇に随行している。

11月2日、光厳上皇の弟 光明天皇に神器を譲り渡した。
11月7日、建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示す。新たな武家政権の成立宣言。
このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。
建武3/延元元(1336)年12月、後醍醐天皇は京を脱出して吉野(奈良県吉野町)へ入った。光明上皇に譲った三種の神器は偽物であり、自らが帯同しているものが本物であると称し、独自の朝廷(南朝)を樹立した。

※以後、時間の遡行がいくつか生じるかと思いますm(_ _)m ※

建武3/延元元(1336)年10月10日、義貞、叡山出立。
13日、金ヶ崎城入城。
親王ふたりは、各地の武士へ尊氏討伐を促す綸旨を送る。
15日、義貞嫡男 新田義顕は越後へ、弟 脇屋義助は瓜生保(うりゅう たもつ)へ加勢に向かった。
義貞は北畠顕家と連携して足利尊氏に対抗しようとするが妨害にあって進軍できず、また北陸地方は越後を除き新田氏の政治力が弱く、増援はほとんど得られなかった。
── 金ヶ崎の戦い。入城から間もなく、足利軍の攻撃が始まった。
金ヶ崎を出発した義顕と義助は、瓜生保が足利麾下となっていることを保の弟達(義鑑坊、瓜生重、瓜生照)から知らされた。義助、義顕は瓜生勢の協力を諦めて金ヶ崎城へ引き返した。(このとき脇屋義助は嫡子 義治を瓜生三兄弟へ預け保護を頼んでいる。)しかし瓜生保離反が知らされると脱走者が続出し、金ヶ崎城出発時には3000騎いた軍勢がわずか16騎にまで減った。
金ヶ崎城へたどり着くと、斯波高経らの軍勢にすでに包囲されていた。栗生顕友が献策した奇襲によって、義助、義顕ら16騎は敵中突破を敢行、金ヶ崎城帰還を成功させる。このとき城内から800騎が打って出、斯波軍を撹乱させた。

足利軍 斯波高経、仁木頼章、小笠原貞宗、今川頼貞、高師泰、細川頼春ら6万は陸海四方から金ヶ崎城を攻撃。これを落とせず。
瓜生保が新田軍へ翻意。足利軍の兵站基地 新善光寺城を落とされる。
足利軍は兵糧攻めへ転換。
金ヶ崎城の兵糧は尽き、城中は飢餓に陥った。
建武4/延元2(1337)年1月12日、瓜生保と兄弟、里見時義らが杣山城(そまやまじょう)から兵糧を金ヶ崎城へ運び込もうと向かったが、足利軍 今川頼貞に察知され壊滅。瓜生兄弟、里見時義ら戦死。
2月5日、義貞らは夜陰に乗じ密かに金ヶ崎城を脱出、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢立て直しをはかる。
16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようと出撃するも、敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。金ヶ崎城からも打って出、挟撃する計画であったようだ。
3月5日、城内突入。兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。尊良親王、義貞嫡男 新田義顕、城兵300名は城に火を放ち自害(義顕は討ち死説あり)。恒良親王は捕縛された。
3月6日、落城。
このとき義貞は杣山城にいたと思われ、生き延びている。

親王ふたりが越前から消えたことにより、足利軍が越前へ向けていた兵力と攻撃は弱まった。しかしこれが、再び新田氏一族に勢いを取り戻させる。
3月、義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利軍に対抗。
弟義助は、越前国三嶺城を拠点とし、足利軍を牽制。

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