誰かに自分の思いを伝える時、人間は言葉を使います。
この言葉というのが、大変興味深く時に葛藤を生みます。
小説家が小説を書いてベストセラーになった時、時として書き手の小説家は「そういうつもりで書いたわけではないのですが、読者は違う捉え方をするのですね」という。
言葉を扱う専門家のような小説家でも、自分の思いと、その思いを伝えられるのかで葛藤するのです。
これが言葉の不思議です。
語り手と聞き手で、同じ単語を用いても捉え方が違う。
分かりやすい例を考えましょう。
例えば、恋をし、色々な事があって、結果別れたとします。
その時の感情は複雑です。例えば、
切ない、とか
悲しい、とか
寂しい、とか色々表現しますが、どれもしっくりこない時が往々にしてあります。
そもそも、言語化するのが不可能、ともいえるでしょう。
小説家などは文学表現を駆使してそれを表現しますが、言語化された時点で、言葉と私が切り離されます。切り離されるから、他の人に違った解釈を与えるのです。
この問題の根底にあるのが、言語の一般性の問題です。
私自身の中で思い描いて感じていること、それを私的言語と呼びましょう。
個人の中だけで巡り巡っているだけなので、矛盾は生じません。
しかし、言葉として発した時点で、言語化された時点で、その言葉は一般性を持ちます。
一般性とは、誰もが同じように解釈する性質のことです。
分かりやすく言うと、辞書に載っているような内容で解釈されるということです。
葛藤の末、「切ない」という単語を発した瞬間から、
「切ない」という単語が切り離され、一人歩きします。
言った本人でも、「なんか『切ない』ではしっくりこないんだけどな」と思ってしまいます。
そこに友人が表れて、「君、別れて切ないんだね、どんまい」とか言われると、イラっとします。
そういう経験は誰しも持っているはずです。
言語を介して、他者に自分の思いを全部理解してもらえることなどないわけです。
そもそも、切ない、と言葉に出した瞬間から、しっくりこなくて葛藤したりします。
思いと言葉
この狭間には、
私的言語と公的言語
言語の一般性という問題があるからです。
他者との会話の成立という点で、言語の一般性は非常に重要です。
辞書があり、その単語をいったら、ある程度、その単語の枠内で理解されるからです。
一般性があるから、会話が成立するのです。
何かを話したら、誰でもある程度理解してくれるのです。
しかし、どうしたら相手に本当に理解してもらえるだろう、と考えると葛藤が起きます。
一般性はあくまで、一般的な解釈であって、その人本人の全てを表し切れないからです。
コミュニケーションで葛藤している人も多いはずです。
それには、このような問題があるからです。
さらに、切ない、といった瞬間、しっくりこない、と感じてしまう事。
自分の思いと、自分の言葉でも葛藤する時もあります。
いや、そういう時の方が多いでしょう。
ここで、割り切れる人は幸せです。
割り切れない人は、2つの道をたどります。
1つは、自己表現がうまく出来ないと抑うつになること。
2つめは、そもそもこの問題の本質は何なのか。
私は両方を経験しました。
もし、この問題の本質がなんなのか、気になった方。
あなたはもう小さな哲学者です。
哲学の世界へようこそ。
言語とはなんなのか、
自分と他人とはなんなのか、
話し言葉と書き言葉とはなんなのか、
無限の世界が広がっています。
当然ですが、統一的な答えはありません。
あなた自身が悩み考えたこと、哲学したこと、
その結果あなたが辿り着いた答えが、この問題の答えの一つとなるのです。
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