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2015年12月31日15:38

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表象文化を撃つ表現を

●昨日は、珍しく年末の難波に出る。暗黒舞踏として知られた土方巽の肉体表現の流れを汲み、現在、反ユダヤ主義作家として知られるセリーヌをテーマとした演劇「セリーヌの世紀」三部作を日本だけでなく世界でも展開している劇団解体社に属する森澤友一朗君から東京から郷里に帰る途中、大阪に立ち寄るという電話があり、難波で会い、演劇の現状や現代の思想状況について歓談。
●土方巽の舞踏といえば1970年代に、私が東京の国分寺市に住んでいた頃、九州の元解放派だった私の友人の当時の彼女で、後にフラメンコ・ダンサーとなり、今はスペインに住み、数年前に来日公演もした伝説的美貌の持ち主として知られた鶴和子さんが、土方巽から別れた笠井叡の国分寺市にあった天使館にいたことがあり、それが機縁で70年代半ば頃、盛んに舞踏論を展開していたことがあった。当時の『現代の眼』に初めて書いた私のユンガー論にもその痕跡はある。
●またセリーヌといえば、G・スタイナーが『脱領域の知性』で、『残骸』のファシスト作家リュシアン・ルバテと比べるとセリーヌの反ユダヤ主義さえ善人に見えると書いていたが、確信的なファシストのルバテと、そうでないピカレスク風のセリーヌの反ユダヤ主義をめぐる言説の違いから、ホロコーストにおける死や、ユンガーがいう総動員としての死が表現にもたらした影響の存在論的意味を話す。
●たとえば、近年の大学に表象文化論なるものがあるが、これはそれまでの文学科などでやっていた表現論と何が違うのか。それはある意味で、法学部政治学科での政治と、政策学部での政治の違いにアナロジー出来るが、では表象文化論の意味とは何なのかということでもある。
●表現は文化なのだろうか。表現を表象文化と捉えることにより、何が失われ、何が変わるのか。文化を撃つ表現、表象文化を解体する表現、そのあたりから現代における表現の課題を見ていく必要があるだろう。
●6時頃、森澤君を案内して味園ビルに立ち寄ってみるが、今日は水曜日でもあり、Torary Nandはオープンしておらず、セリーヌとマリネッティの接触は未遂に終わり、また時刻が少し早いこともあり、どの店も開店前だった。
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