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2015年12月14日17:19

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禁煙は大丈夫か──私の喫煙個人史

 私が禁煙に成功したのは、1990年頃であり、東京から大阪に戻り、珍しくも2年ほどチーフ・ライターとして務めていた制作会社を辞めた後だった。それまではヘビースモーカーだったが、自分で考えだした独自の呼吸法により、ニコチン中毒からくる禁断症状もなく禁煙を達成した。しかし、最近、定例の研究会の場にしており、また少し前までは、この近況で何度も書いたが九州ファシスト我々団の反選挙活動の交流幕営場ともなっていたTorary Nandだが、そこで私は、禁煙どころか煙草を吸い続けていた。最初に手をつけたのは、夏の8月に久しぶりに福岡の我々団本営に行って以来か、それ以前からかもしれないが(たぶん、そうだろう)、山本桜子嬢が吸っている「わかば」であり、定例研究会では研究会常連である民族の意志同盟の満尾昌利君の「マルボーロ」であり、反選挙活動の時は、わかばやマルボーロにセブンスターやハイライトその他、無数の銘柄の煙草が入り混じり、単純計算しても、前に書いたように160本は吸っている。一番よく吸ったのは桜子嬢のわかばであり、次いで満尾君のマルボーロだろうか。
 一週間ぶりにTorary Nandに顔を出すと、そこには満尾君がおり、にこやかな笑みを浮かべて、マルボーロを差し出し、私に勧めたのだった。私は、反射的にマルボーロを手にとり、ライターで火をつけてくれようとする満尾君の目を細めた笑みを見た瞬間、喫煙の誘惑をする顔を見たのだった。むろん桜子嬢もチラリと喫煙の誘惑の仕草をしたことはあった。しかし、『人民の敵』第11号で制作・刊行者の外山君が言うように桜子嬢は「"千坂門下"でユンガーの『労働者』を読んだりして」いるので"師弟愛"の観点から問題とはしないが(というか、『労働者』的には禁煙ではなく喫煙の突破ということになるだろう)、満尾君の笑顔の奥には、よく見るとメフィストフェレスの顔があった。
 振り返ってみれば、私が煙草を吸いだしたのは、高校生の頃であり、1969年のアナキスト高校生連合(アナ高連)の頃だった。それ以前にも煙草の経験はあったが、常態的な喫煙までには至らなかった。大阪環状線の天満駅近くにアナ高連が集う行きつけの場所があり、そこでみんなアナキズム革命とマルクス主義批判の話を煙草の紫煙混じりにしていたのだった。当時、アナ高連では、私製の銘柄作りがマイブームとなっており、みんなが、それぞれ、バクーニン煙草やネチャーエフ煙草、マフノ煙草、安保粉砕煙草、等々のパッケージを手製で作り、購入した煙草の箱に被せていた。面白いことに、ゲバラ煙草はなかった。というのもゲバラはアナキストではなかったからだと思われる。その時、私が吸っていたのは「ハイライト」だった。
 アナ高連は、大阪と東京を二大拠点とした全国組織で、大阪だけでも約400名ほどの動員力を持つ高校生組織だった。私が1968年に結成したアナキスト高校生戦線や黒色高校生連盟の後継的組織であり、私が初代の全国委員長だったが、結成大会を大阪の上六こと上本町六丁目の会館で行うなど、ヘゲモニーは大阪にあり、東京は200名ほどのメンバーがおり、東京の委員長がいたが、全国的には支部のようなものだった。大阪にヘゲモニーがあったのは、1968年闘争期のアナキズムは、大阪・関西のアナキスト革命連合(ARF)の勢力が群を抜いて最大であったことに関係し、私もARFの結成時からのメンバーだった。前にも書いたが、ARFの大阪芸大夜襲闘争の突撃隊として加わった私は逮捕され、鑑別所から出た後、11月決戦としての佐藤訪米阻止闘争のために東京へ行ったが、本格的には、20歳になったばかりの1970年の4月に、反安保闘争を直前にして東京へ行った。東京では、世田谷区の若林や目黒区東が丘と駒沢公園近くで、アナ高連から一緒だった彼女と同棲していた。その時に吸っていた煙草は「敷島」や「朝日」だった。これは、吸口を手で十字に絞り、吸引の通路を細くして吸うのだが、それくらいきつい煙草だった。ハイライトのような軟弱な煙草を吸っていた私には、難しい煙草でもあり、何日経とうとも、箱の中身はあまり減ってはいなかったことを覚えている。彼女と別れた後に出会い、唯一、正式に結婚し、籍を入れた女性と千葉の下総中山や文京区の飯田橋、板橋区の東武練馬で暮らしていた頃は、さすがに敷島からは手を引き「セブンスター」に変えていた。しかし、1970年代半ばに彼女と別れ、離婚し、中央線の国立駅北口の国分寺市に住むようになった頃、知り合った超美形のストリッパーの用心棒となり(何しろ、私は高校生の頃に行きつけの道院[道場のこと]に加えて、大阪城にある柔道や空手、合気道、少林寺拳法などの練習場でもある修道館に通いつめ、20歳頃に少林寺の2段になっていたので、実戦経験は皆無だったが、俗にいう街中の喧嘩には強いはずだったw)、その彼女が吸っていたのが「ピース」だったので、私もそちらに乗り換えていた。私は彼女のショーに同伴し、彼女がステージで踊っている間、控室のような所でピースを吸いながら、彼女にちょっかいを出そうとするヤクザ者に睨みをきかすというわけだ。それが功を奏したのか、私を見た男たちは、私を彼女の情夫だと判断し、羨ましそうな視線を私に投げかけるだけで、彼女に手を出すことはなかった。彼女はストリッパーだが、哲学的素養があり、いつもストリッパーと用心棒の2人で、彼女の仕事以外の時は、ピースの紫煙をあげながらカントとかショーペンハウアーの話に興じたりもしていた。
 彼女と別れた後も、私はピースを吸い続けていた。一時は、ピースを1日に2箱は吸っていたこともあった。要するに、部屋に篭って原稿を書く日々だったこともあり、喫煙量も増えたのだろう。その後も、銀座のエステ関係や渋谷の社長秘書の女性と付き合ったりしたが、煙草はピースのままだった。ところが、20代最後の年に知り合い、内妻となった女性が、その前に立ちはだかることになった。彼女は日本酒を一升飲んでも平気な酒豪だったが、他面では自然食品派であり、自分も禁酒するからといって私に禁煙を求めてきたのだった。さすがに私は堪忍してくれと哀願すると、1日に5本の喫煙を許してくれた。ところが許可された銘柄は、「テンダー」とか「ジャスト」という、それまで耳にしたこともないスカスカの軽い煙草だった。杉並区の久我山に住んでいたが、朝起きると、まず余計な煙草を吸っていないか口臭チェックされ、夕方にも、隠れて喫煙していないかチェックされるという案配だった。テンダーとかジャストは無臭に近く、ニコチンが軽いと同時にチェックしやすい銘柄だったのかもしれない。
 彼女と別れた後、西新宿にある幽霊出没の噂で借り手がつかず、格安になっていたマンションの部屋に住むようになったが(前の自殺した女性居住者の長い髪の毛がバスルームの隅から出てくるようなホラー的な部屋でもあった。知り合いの霊能師は引っ越せと言ったが、家賃の格安さに負けた私は住み続け、何が出ようと平気で夜中でも入浴していたが)、煙草の銘柄はピースに戻っていた。その後、町田市の鶴川に移り、そして40歳を目前にして大阪に戻るが、その頃の銘柄は、仔細は忘れたが、「セブンスター」とか「マイルドセブン」の箱が脳裏の印画紙に残っている。大阪に戻った当初は、冒頭に書いたように、しばらくは新幹線の新大阪の北にある江坂界隈にあった制作会社にコピーライターとして務めていたが、制作部の部屋にいるのはデザイナーやカメラマン、コピーライターと喫煙派ばかりであり、部屋の壁はニコチンで黄ばみ、室内は常に紫煙が朦々としていた。私のデスクにも吸い殻が山となって積まれた大きなガラス製の灰皿が2つ並んでいたが、この頃の銘柄についてははっきりした記憶がない。
 会社を辞めると、とたんに収入がなくなり、煙草代もなくなる。私が禁煙に至った動機は、まさに「存在が意識を規定する」類のものだったかもしれない。
 今のところ、Torary Nandへ来た時は喫煙しているが、帰宅した時は、全く喫煙することはない。その意味で、禁煙の要塞は、まだ陥落していないといえるが、今後は、どうなるか。私の禁煙の「シルトの岸辺」は、いつまで持つだろうか。
 なお、禁煙したい人は、定例研究会の日にでもTorary Nandへ来られたい。Toraryでは、私は喫煙しているだろうが、天下無敵の禁煙の呼吸の秘法を伝授しよう。ちなみに、以前、この禁煙の件で新書執筆の依頼があったが、いつの間にか企画が壊れていたらしい。
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