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2015年11月17日22:36

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【224】 2015/11/17(火) 天国行きのバスの運転手。自ら進んで喜んで!」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16168 (写真入り記事)

私は、子供のころから乗り物が好きでした。その中でも、特にバスが好きで、一人でバスの旅をよくしていました。

東京都品川区というところで生まれ育ちましたが、洗足池、大森駅、大井町駅、五反田駅、大井競馬場、羽田空港など、お金を払わずに自由自在にバスを乗り回していました。幼稚園生だったからです。

バスの運転手さんは、ヘッドセットマイクのようなものをつけていて、「発車します!つり革や手すりにおつかまり下さい!」「左に曲がります!ゆれますのでお気を付け下さい!」と語ると、車内のスピーカーからそのまま声が聞こえました。

ある時は、バスの乗客が私一人だけになりました。運転手さんは、「坊や、どこまで行くの?」と、マイクで聞いてきました。私は、「終点まで行きます!」と答えました。

そうしたら、「次は、どこどこです!」というアナウンスをカットして、運転手さんは私に声をかけてきました。

「坊やはバスが好きなのかい?」
「はい」

「大きくなったらバスの運転手にならないか!?」
「うん」

「バスの運転は楽しいぞ」
「うん」

「またいつでもバスに乗りに来てね」
「はい」

と、話は延々と続きました。

後日、バスの運転手はお客さんと会話してはいけないことになっていることを知り、バスの運転手さんにかわいがってもらったことを思い出しました。

しかし、今思うと、親から見たら、相当やんちゃな子供だったと思います。親泣かせで、相当心配させて疲れさせてしまったのではないかと思います。

小学二年生の息子が、時々、勝手にいろいろなところに行き、私は真っ青な顔になって「神様、息子を守って下さい!」とお祈りしながら、町中を自転車で探したことがあります。

妻から電話が入って、「見つかったよ!」と聞いた時には、ドッと疲れが出てきました。

また、電車の旅もしました。横浜にも行ったことがあります。

別に、山下公園に行ったとか、中華街に行っておいしいものを食べたとこではなく、ただ行って、そのまま引き返してくるだけです。

そのプロセスが楽しくて、やめられませんでした。

小学1年生になり、大人の半額料金がかかるようになりました。ある日、お金もいないのに3駅先までバスに乗りました。

帰り道、さすがに無銭乗車はできず、雨が降る中、長靴をはいて傘を差し、バスが通った道を必死に歩いて引き返しました。かなりの冒険だったと思います。

それでも懲りずに、少し大きくなるまで、バスや電車に乗っていろいろところに行きました。

小学校の高学年になると、車に興味を持つようになりました。近くのトヨタや日産に行って、車のことをいろいろ聞いたり、パンフレットをもらったりして来ました。

「早く大人になって、自分で車を運転したい!」そんなことばかり考えていました。

家のすぐ近くに、共産党の都議会議員さんの事務所がありました。選挙の時になると、ちゃっかり選挙カーに乗せてもらって、町を1〜2時間ドライブしてもらいました。

16歳になると、その日のうちに原付免許を取りに行き、1ヶ月後には、自動二輪中型免許を取って400ccのバイクを買って乗り回しました。

車の免許は、誕生日の一か月前から教習所に入校できるため、18歳の誕生日に車の免許を取得しました。早速その晩、レンタカーを借りて、4人の友達と24時間のドライブに出かけました。

21歳で大型免許を取得し、22歳で大型二種免許、けん引自動車免許等を取得しました。

別に免許マニアではありません。バスを運転することは子供のころからの夢だったので、バスに乗りたくて免許を取りました。

ボランティアで、バスの運転手をすることはありましたが、そういう機会はそう多くはありません。

交渉次第では、レンタカーでバスを一日借りるより、運転手付きのバスを一日チャーターした方が安いこともあるほど、バスのレンタカーはべらぼうに高いです。

バスが乗りたければ、路線バスの運転手か、高速バスの運転手などになるしか方法はありません。

しかし、そんな私に、バスを運転する機会が回ってきました。11/20〜22までの大会のゲストを送迎するバスドライバーとしてです。

ある日、「菅野先生、バスを運転できる人がいなくて困っているんですよ。ぜひ、送迎バスの運転の奉仕をお願いできないでしょうか?」と関係者から頼まれました。

この年になって、昔ほどの情熱でバスを運転したい訳ではありませんでしたし、しばらく大型車に乗っていなかったので、自信がなかったこともあり、しばらく躊躇して考え込みました。

最後は、「神様が私に与えて下さった奉仕に違いない!?」と受け止め、喜んで引き受けました。

今日、バスが届いたので、夕方ホテルに行ってきました。場所はニューオオタニです。

ちょっと格の違う場所で、いきなり入口の車寄せのところで、自民党の額賀議員と鉢合わせになり、「こんにちは!」とあいさつしてしまいました。そうしたら、笑顔であいさつを返してくれました。

今度は、ロビーで民主党の辻本議員と会ったので、笑顔を向けると、満面の笑顔を返してくれました。

それより、目的はバスです。

まずは、バスの自動ドアの開け方を覚え、車内のランプの付け方、エアコンの使い方、排気ブレーキはあるのかどうか? ナビゲーションシステムをどうやって使ったらいいのか? 音楽は聞けるのか?など、一通り車内をチェックし終えました。

いよいよ、バスのエンジンをかけました。ディーゼルの小気味よい音が車内に響き渡り、興奮してきました。

アクセルを踏み、ハンドルを切り、大通りに出ました。驚いたのは、トルク(底力)が強く、とても早いことです。

「バス=遅い」という方程式は、木っ端みじんに打ち砕かれました。

しかし、町を走っていると、バスは嫌われ者です。合流しようとしても、なかなか入れてもらえません。やっと合流したと思ったら、気の短いドライバーで、左車線から私が運転するバスを猛スピードで抜かして行きました。

そういえば、私も路線バスを毛嫌いしていたということを思い出しました。「運転手さんに失礼だったなー!」と心を痛めました。

人は、試練を通して、他者の痛みを慮れる人に変えられるものです。試練は、祝福です。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(第二コリント1:4〜6)

他の車から毛嫌いされ、邪魔者扱い、のけ者扱いをされて、心痛めながら運転していると、バスの運転手にしかわからない悩みがわかって来ました。

しばらく、バスの試乗をしました。大型車の感覚を取り戻しました。明日が楽しみです。

明日は、早朝から空港に行って、オーストラリアからの音楽ゲストのチームを迎えに行きます。

早く寝ないと疲れが残ったり、寝坊してはいけません。今日は12時前に寝たいと思います。

大会の期間中、20名近くの大切なゲストを乗せて移動します。事故に巻き込まれることがないようにみなさんのお祈りをお願いします。

私が本当に好きなのは、バスの運転よりも、天国行きのバスの運転です。

この場合のバスはとは教会のことです。バス会社の社長は神様で、バスの運転手は、牧師や奉仕者です。私は、神様から牧師としての働きが与えられて感謝しています。

しかし、バスは空席だらけで、まだまだガラガラです。多くの日本の方々に乗って頂いて、天国に向けて出発したいです。

今週金曜日から三日間、日本武道館で1万3000人のコンサートと伝道メッセージが語られる大会が行われます。

私は、この大会には、クリスチャンでない方に来てもらいたいと思っています。

「クリスチャンは来ないでほしい」という意味ではありません。クリスチャンの人は、誰かお友達を誘って一緒に参加するか、大会の奉仕に関わってもらいたいです。

私の奉仕はバスドライバーです。

この大会をバスに例えるとしたら、天国行きのバスが停留するバス停まで連れて行ってくれる超大型10両編成のけん引式シャトルバス(空港で三両編成なら見たことがありますが・・・)です。

このシャトルバスに乗って、イエス様と出会い、下車した後には、天国行きの教会バスに乗り換えて頂いて、共に天国に向けての旅をはじめたいです。

クリスチャンのみなさんは、ぜひ、今からでも遅くはありません。奉仕を致しませんか?

人は誰でも、愛するより愛されたいものです。また、仕えるよりも仕えられたいものです。

しかし、愛されることはうれしいですが、本当の満足を得られる保証はありません。

お互いに愛を求め合って、傷つけ合っているカップルを見たことがあります。

「俺を見て!」「私を愛して!」と愛を渇望しているのに、互いに求め合うだけで、与えることはなく、一向に満たされないで苦しみもがいていました。

しかし、自分から人を愛するなら、心は喜びで満たされ、必ず幸せになれます。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを お捨てになりました。それによって私たちに愛がわ かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、 いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ 3:16)

また、仕えられたからといって幸せになれるかどうかはわかりません。

仕えてもらっているうちに、「やってもらって当然!」と思うようにになり、願ったようにやってくれないと腹を立てて、相手を批判ばかりして、幸せからほど遠い人がいます。

しかし、自ら進んで仕えるならば、必ず幸せと充実感を感じることができます。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

私は、バスの運転手も、天国行きの教会というバスの運転手も、神から導かれて、喜んで引き受けさせて頂きました。喜びでいっぱいです。

みなさん、喜んで愛し、喜んで仕えておられますか?

まずは、「自分がしてもらってうれしいことを相手にする」(聖書のゴールデンルール)ことからスタートしてみられたらどうでしょうか?

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。(マタイによる福音書 7:12)

今日は、夕方まで分刻みで仕事をしていました。愛し、仕えることに心を向けました。

やればやるほど、不完全であり、愛がない存在だと感じさせられます。しかし、愛し、仕えることを求めて生きたいと思います。

今日は、これから、祈りのウォーキングに行き、すぐに寝たいと思います。

今日も一日お疲れ様でした。

また明日お会いしましょう。おやすみなさい。
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