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2015年11月09日20:44

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秋の長雨の夜に

ちょっと前に、久しぶりに会ったジャーナリストの友人から、
こんな話を聞いた。

バルカン半島にサッカーの取材に出かけたとき、
かつてプロ野球で野手をしていたスポーツ解説者と一緒になったという。

内戦で荒廃した旧ユーゴスラビア(今のボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエヴォで、
青年たちにいろいろ話を聞いているうち、
同行者が野球の選手だったことを知った青年たちは、
石の投げっこをしようということになったという。

公園の脇の手近なところに転がっている小石を拾って、
池の向こうめがけて遠投合戦をしたらしいのだが、
野手をしていたというスポーツ解説者は、野球などしたことがない青年たちに、
まるっきり歯が立たなかったという。

どうしてそこまで肩がいいのか、と聞くと、
「生きるか死ぬかの戦闘現場で投石を繰り返していれば、
 おのずと人を斃すための投げ方が身につくものさ」
という答えが、ごく当たり前のように返ってきたと言った。
要するに石ころが人を殺めるための重要な武器だったのだ。

戦うということは、そういうことなのだろう。
「命がけ」などと文章表現のなかでは誰にでも書けるけれども、
かれら若者たちが身につけた小石の投げ方は、
実質的に命がけの行為だったわけだ。

安倍晋三が戦争を口にするときに、
こうしたリアリズムは頭にあったのだろうか。

また、反安保法案とか反安倍政権と唱えて、
政府の暴挙を阻止しようとした人たちの意識のなかに、
闘いのリアリズムが、ここまで想定されていたのかどうか。

ベトナム戦争の最中に、戦地に出かけた作家・開高健が、
試しに持ったM16ライフルのスコープを覗き込んだとき、
その照準器のインジケーターのなかに人影が入り込んだとたん、
トリガーにかけた指を思わず引きたくなった、というようなことが、
『ベトナム戦記』だか何だかに書いてあったことを思い起こすが、
このゲームのような無痛感覚と人を殺してみたい誘惑の恐ろしさは、
石を投げて敵に向かっていった青年たちの意識とは違う。

かつて森岡正博が、『無痛文明論』で、
手を汚さずに、苦労を避ける傾向を助長する現代文明は、
やがてその行き着く先に「無痛文明」が待っている、と書いた。

楽を覚えてしまった身体の欲望は、生き生きと発動する「生命のよろこび」を潰すという。
しかし、あまりにも悲憤慷慨の理想論が先行して、彼の論旨は破綻してしまったのだが、
要するに、生命の躍動感を失わずに生きるためには、不快なものからも逃げずに、
闘争し続けることが生命のリアリズムには必要なのだ、ということなのだった。
本当か?と思ったのだが、石が頭に当たったときには死んでいるに違いない。

2000年代初期のパラダイム転換期に出てきた、
日本社会の解体現象を分析する書籍のひとつだったが、
90年代の初期から始まっていたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のように、
NATO側とロシア側との代理戦争にバルカン半島の「民族」が利用され、
内部分裂を余儀なくされた事態には、『無痛文明論』なんぞ、
グラマン戦闘機を竹槍でやっつけようと息巻く大日本帝国の茶番と同じく、
児戯に等しく、何の役にもたたなかった。
世界と日本との現実感覚に大きな懸隔を感じたものだった。

しかし、小石の「投擲術」にまつわるリアリズムは、
バブル崩壊後の日本社会では、「処世術」という個人の事情に収斂し、
小賢しく変換させられているようなのだった。

わたしは、そのひとつの典型を、下記の記事に見届けるのだった。
朝日新聞朝刊 2015年10月22日 「耕論 もの申す私たち」より。

「正論吐いたら変わるのか」

鈴木 拓(1975年生まれ。96年、塚地武雄とお笑いコンビ「ドランクドラゴン」結成)

俺なんて、まぁクズ芸人ですから。
何か異論を述べたって「そうだな」なんて誰も思わないですよ。

ありますよ。テレビの現場で「こうした方が面白いのにな。うまくいくのにな」
と思うことって。でも、自分の意見を言って爆笑を取るより、
ディレクターの指示に従ってスベる方を選びますね、俺は。
だって意見通してスベっても責任取れないですもん。
そんな俺に、異論を述べる資格なんかないんです。

スベってる俺を見た、くだらねぇヤツが、ツイッターに
「お前、つまんねぇのに、何でテレビ出てんの」みたいなこと言って絡んでくる。
「何ででしょうね。すいやせ〜ん」なんて、軽〜く返します。
いいんですよ。別にネットで炎上して火だるまになたって。
痛くもかゆくもない。だってあの人たち、俺のお客さんじゃないじゃないですから。

俺の本当のお客さんは、仕事をくれるメディアの人。
そこでは、異論なんてみじんも吐かない。
現場でめんどくせぇヤツだな、と思われたら次の仕事がもらえませんから。
素直に従った方が「じゃあ次も」って気になってくれるでしょ。
ディレクターが黒いものを白と言ったら「ハイ、真っ白です!」って返します。

最近、外国の影響なんすかね、「自分の主義主張は堂々と言え」
「間違っているものは間違っていると言うことが正しい」みたいな風潮があるじゃないですか。

でもね、こんなこと言っちゃ申し訳ないですけど笑っちゃいますよ。
だって、だぁ〜れも、そんな正論なんか聞いてませんし、
言ったとしても、会社も世の中も変わりませんから。
みんなが半沢直樹になれるはずないんです。

言っていいのは、周囲が「なるほど」って耳を傾けてくれて、
失敗した時に自分でケツ拭ける人。
でもそんな人ってほんのわずか、一握りでしょ。
世の中のほとんどの人に異論を述べる資格なんてないんです。

そもそもですよ、日本人は歯車になって、黙々とやってきたから、
すげぇ経済成長とかもしちゃったわけでしょ。
外国のやり方が正しいみたいな変な風潮ができてからですよ。
GDPも中国に抜かれちゃったじゃないですか。

会社や組織の中で、能力も才能もないのに妙な正義感を振りかざして正論吐いても、
誰も聞いちゃいない。それで上司ににらまれたら、自分が困る。
ましてや会社が傾くなんてことになったら、みんなも困るんですよ。
「それでも言うんだ」って人は逆にすげぇとは思いますが……。

まぁ俺のクズみたいな考えですけどね。
でもなぜか仕事のオファーをいただける。
この文章を読んで不快に思われたなら謝罪します。
どうもすいやせ〜ん。

(聞き手 諸永裕司)

むかしから太鼓持ち芸人には、かれと同じく、
あらかじめひねこびた態度を用意しておく人が多いものだったし、
同世代の一般的なサラリーマンよりは多くの収入をもつであろう鈴木拓には、
学歴などツユほども役に立たない芸能界というすり寄りと実力主義がモノをいう業界で、
ここまで生き延びてきたという矜持もあるのだろうが、
「どうせ俺の言う正論なんて誰も聞いちゃいない」という正論を聞いてみたい気がする。

周囲が「なるほど」って耳を傾けてくれて、
失敗した時に自分でケツ拭ける人しか、異論を語ってはいけないのか?
世の中のほとんどの人に異論を述べる資格なんてない…というが、本当なのか?
そういう自己主張をするのは、西洋かぶれのめんどうくさいヤツなのか?

ウザイと思われたとたんに職を失うのは怖いにきまっているが、
現状がおかしいと思いながら、それをこらえて会社の中で生きているうち、
精神のバランスを崩す人がかくも増えてきているのは、その人の処世術がマズいからか?

そりゃ、確かに叩かれ強くない人が増えているのは事実かもしれないが、
叩く方の人格に問題があったり、理不尽な叩き方が多くなっているのも事実なのだ。
かえって、芸能界の方が、筋がとおっていたりして、ルールはしっかりあるもので、
鈴木拓の生かされている業界の方が、厳しくも縦社会で秩序だっている。
鈴木拓の、人を食ったような話は、民放テレビ電波を乗っ取った芸能界という、
ひとつの巨大権力構造の傲慢さが正直に吐露されたものとして読み取ることもできる。

それにしても、あのボスニア・ヘルツェゴビナの石ころは、どこにいってしまったのか。
あれこれ、秋の夜長に思ってみるのだが、まとまりがつくものではない。

自分の身に余ることを考えるヒマがあったら、頭の上のハエを追え…とはよく言われるが、
そういうすり替え理論で処世を照らしたつもりでも、
ハエがわく源はどんどん大きくなっていくばかりではないのか?

でも、人生、なにがおきるかわかったものではない。
鈴木拓が、突然、こうした意見を反転させる可能性だってないわけではない。
鈴木拓と同世代の山本太郎だって、
若いときは、ダンス甲子園で吃驚パフォーマンスやっていたんだし。



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