mixiユーザー(id:40049699)

2015年06月22日12:17

393 view

イマジネーションの足りなさ

元少年A 仕事を始めても「酒鬼薔薇らしい」と噂立ち職を転々
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=3478302

そらわかるに決まってる。わかることを前提に生きていくしかないだろう。気持ちがわからないのかって?ケッ、わかってたまるか。逆によくそんなわからないだろうとたかをくくる勢いで生きてきたな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

事件当事者の名前を出す「意味」がこれほどまでに議論されない国で考える(第五回)(藤井誠二) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiseiji/20150613-00046232/

■名前は重要な事件のディテールの一つだ■

藤井:

少年事件は地元では加害者や被害者がどこの誰かがすぐにわかります。たとえば、ぼくが取材した事件だと、1999年に起きた同級生だった男(当時17歳)が女性(当時16歳)をストーキングの上、殺害した西尾事件http://matome.naver.jp/odai/2139442851395503601もそうですが、事件から10年経って加害者と被害者の同級生が集まって、ぼくに連絡をくれた。ぼくは名前は実名と一文字違いで『殺人を予告した少年の日記』というノンフィクションを出しましたが、事件の詳細を描きました。加害少年の日記も公開して、精神科医に分析をしてもらいました。その記録があったから、同級生たちは集まるようになり、ずっと10年間読めなかったぼくの本を読んで、自分たちは何を考えて、行動したらいいのかを話しあったそうです。遺族の支援を彼女たちはおこなっています。加害者は地元に戻り再犯をして再び服役しましが、男をどのように警戒するかなど、考えています。記録があったから、当時の記憶が辿れた、と同級生たちは言っていました。やはり、克明なディテールは大事です。

澤:

ええ、ディテールは大事です。一つの犯罪の「歴史」はディテールにこそ、当時の時代があらわれます。それがフックやタグになり現代とつながっていく。ほかの歴史研究でもそうです。それから、被害者や遺族の心身の修復の問題もとても重要ですが、加害者の更生にも社会が注力しなければならないと思います。

藤井:

先ほども触れましたが、更生は匿名だったからできたという方がいますが、違うと思う。それは何よりも本人の立ち直りたいという努力や、贖罪の意志、その少年を支えていく支援者の大人たちがあってこそで、実名報道されてたら再犯してもいいという免罪符にするつもりでしょうかと言いたくなる。そうした支援や、職が必要なんです。これは統計にあらわれていますが、社会復帰したあと定職についているかどうかで再犯率が倍以上も違ってきています。協力雇用主を増やすとか、更生するシステムをつくっていくことが大事で、名前云々じゃないと思う。

澤:

報道との関係はあるだろうと私は思うし、そのことは自覚せねばと思います。でもそれ以上に実務的には名前を変えることや、受け入れる社会の場所の問題で、名前を出したから更生できない、出さないから更生できるということに終始するような単純な話ではまったくないと思います。

藤井:

そう弁護士が法廷で主張するのはいいとしても、社会復帰後は責任持たないし、持つこともできない。地域では誰なのかわかっているし、二十歳以上は報道される。どちらにせよ、加害者本人は自分の責任として引き受けて生きていかねばならないのです。被害を与えてしまった相手がいたら、何よりもそこと向き合わねばならないのです。贖罪とは何かを一生かかって考えねばならないのです。匿名報道はそうした「考える」ことを逆に奪うことにつながるケースも多い、とぼくは思っています。

澤:

犯罪はなかったことにできない。報道上、「なかったこと」にしても、完全に隠したままでは就職できないでしょう。どっかでなかったことにできないことにぶち当たるのではないかと思うんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからは持論だが、そら貧乏にもなる。サレジオンは私にとってよっぽどの例外だと思う。

この記事はミクシィでも扱われなかったが、とりあえず弁護士くさい記事ではなかったのが読んでいて助かった。もしもこれを「再犯率は許容度で変わる」という感じで取るならば、それはかまわんが、その許容度の低さが合理的な観点から来ている以上、それを覆すものを用意しなくてはならないだろう。

http://blogos.com/article/108074/

少年院を出所した子どもは、就職できるか否かで「再犯率」が大きく変わる。若者支援における「出口」の重要性

2001年6月22日の朝日新聞で、印象的なものがあった。

アメリカではセクハラや雇用差別についての訴訟が相次ぎ、次々と企業が敗訴しているというもの。アメリカでは「採用や昇進の際、仕事上の本人の能力以外を判断材料にすることは許されない。人種、性別、宗教のほか、結婚や居住地、逮捕歴などが能力以外のものにあたる。採用面接で『結婚しているんですか』なんて訊ねたら即座に訴えられてしまう。」

そんなに「すばらしい」こととは10年を経ても思っていません。「逮捕歴」(脛に傷のある人間)があるけれど仕事はばりばりできる人間と、それほど有能ではないけれど温厚篤実な人間とどちらといっしょに仕事をしたいか、と聞かれたら、私は後者を選ぶ。

法治社会において「逮捕歴がある」ということを、私はある種の社会的能力の欠如と考えるからですね。「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということを知らないで違法行為を行って逮捕されてしまった人間は「バカ」であり、「バカ」であり、かつ「仕事ができる」人間の在ることを私は信じない。

「こういうことをすれば、こういう法的制裁を受ける」ということが分かっていてなおそれをする人間は、「ルールを軽視するタイプの人間」であり、そのような人間がトップに立って「ばりばり仕事をした」場合、当該企業は、産業廃棄物の不法投棄とか品質管理の手抜きとかいう「不法行為」のチャンスに際して、そうでない場合よりも「ルールを軽視する」可能性が高い。そして、そのような不法行為は結果的には大きな社会的制裁を企業にもたらすので、「ルールを軽視するタイプの人間」は長期的に見れば「企業に有害な人間」、つまり「仕事のできない人間」である確率が高い。

私は企業は採用や昇進において「総合的な人間的能力」を基準にするのは当たり前だと思うし、私生活でどのような生活形態を営んでいるかということを、その人の能力をはかる基準にすることは適切であり、「訴えられる」ようなことではないだろう。

社会通念上において、「ま、このあたりまではまともなやつと言っていい」というあいまいな基準は存在する。そして、「あきらかにまともでないやつ」にはできれば「敬して近づかない」方がよい、というのは「大人の常識」だ。その上で、「大人の常識」をわきまえている、ということはどのような社会活動をする上でも、とりわけ企業が継続的にクライアントからの信頼性と「ご愛顧」を確保し続けるためには、不可欠の重要な条件であろう。

人事担当であれば、「悪魔信仰」の人は採用しない。猫を殺すのが趣味というひとも採用しない。結婚が今度で十回目という方も採用しない。新宿歌舞伎町コマ劇場ウラ近辺在住も採用しない。そういうバックグラウンドについて、一言も質問できない、というのは不自由なわけだ。

人事担当者にむかって、自分のパーソナル・ヒストリーを問われるままに語って、「この人は大人の常識のわかった人だ」と信じ込ませることが「できる」かどうかということはすでにその人の社会的能力の重要な一部である。それができる人間は「仕事ができる」可能性が高かろう。対照的に、自分について何も語らず、「大人の常識」があるのかどうか怪しいという人間は、その時点ですでにある種の社会的能力の欠如をさらけだしている。その程度の能力を欠いている人間は「仕事ができない」可能性が高い。

むろん、「仕事上の能力」というのは、その人の総合的なものの考え方とか、社会的成熟度とかとまったく無関係に定量できるとする思想こそが「アメリカの常識」であったし、今もそうなのだろう。アメリカでは人事担当者がうっかり「結婚してます?」とか訊いた瞬間にただちに弁護士に電話をするようなタイプの人間こそが「大人の常識」を備えた人間であり、人事担当者の片言隻句言葉尻をとがめて、企業を訴えてまんまと総資産の数パーセントをもぎとるような「仕事のばりばりできる人間」こそ、全企業がわれさきに採用しようとするタイプの人間が多い。

蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘るものである。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する