「想像力の枯渇」−このヘイトに見られる「代償行為」
−自らの疎外状況の「他者」への転移行動の異常性
先だって「NHKスペシャル沖縄戦 全記録」を見ることが出来た。当時「戦争の狂気」が余すことなく描いているのだろう。しかし「全記録=事実の全て」ではない。「現場は何でもあり」それが戦争と言うものだろうか。
しかし乍ら「眼を通して、対象を観る」ことより、同じ番組を見ていても「諸個人全く受容の在り方」の違うことに、この記事の「つぶやき・日記」を見て、改めて気づくこととなった。
「教育の荒廃、ここに在り」さぞかし人格高潔な「立派な日本人たちの言」のオンパレードであることか。沖縄同朋・原告たちに浴びせられるヘイトスピーチの「この異常性」は何なのだ。
この「新聞記事」の表象に囚われての悪口雑言には眼を覆ってしまう。「文章すら読めない」ならば「自己主張も、この程度」自らの教育水準と教養の無さ、また事実の「形而下・上」にあるものに気づきもせずに「新聞紙上の言葉」に、ここまで踊る集団心理の病的異常性……。
ここまで異常な「自己顕示欲の強さ」は、昨今騒がせている「凶悪事件の犯人たち」とどことなく共通するようにも想われるじゃないか。
「この記事」には無分別な輩が「原告・同胞を中傷する」ことにより「現政権ー政府を守る・日米安保を守る」ことが日本国民の安全と繁栄を守るとするー短絡思考の標本にも見えてしまう。
「ここ」には地域住民への「対話・理解・思い遣りー民主主義」の片鱗も無い。ただ「記事の中の不整合」を見ては「これが事実だ」的に「自らの読めなさ」を喧伝している。
また、驚くことに自らが「カルト」であるであろう「日本神道・天皇制・互いの歴史―文化」について「何も知らない・知ろうとしない」ことさえ覗えてしまう。
彼らは日本と沖縄の「神道」が、「瓜二つのようにある」ことを知らないのであるだろう。よってここまで罵詈雑言を同朋に投げつけることが出来てしまうのだろう。一度「日本人のDNAのY染色体」の分布を見てみると良い。(日本人ー縄文人説など、色々とある…)
以前「NHK・テンペスト」では薩摩と中国の狭間に立ち「琉球王国を守る」べく、仲間由紀恵さんが演じられた。郷土であれば「誰だって」郷土愛がある。これを見て日本と沖縄の「神道」が、瓜二つのようにあることが理解できないなら「何を見てたんだい」というしかない。
しかるに沖縄の地域住民の活動に罵詈雑言を投げつける彼らには「その郷土愛」が理解できないようだ。逆を言えば、彼らの祖国愛・郷土愛とは、「彼らと同じ」程度なのだ。
「如何に考えるか無くして、如何に書くかはあり得ない」 全くその通り、彼らはその逆説をそのまま証明・体現しているのでしかない。
沖縄のアマミキヨ・タマガエ・オナリ、日本のカムロキ・カムロミ・ミコ・タマガエリには驚くほどの共通性がある。「私など」にとっては沖縄は聖地だ。ここに「戦争のあった事ー米軍基地の有りつづけること」を、この頃の右翼ー国士は何故に怒りを覚えないのか……。「反米・反軍」でもなければ、そこに日本の原風景への「愛国心・祖国愛」へのの片鱗すら見られない、……。
「想像力の翼」がなければ「真実ー在ること」すら歪んで見えるしかない。歪んだ真実を見て述べることは戯言でしかない。「他者を観る」ことがなければ「戦争の狂気」など見えないし、その断末魔も見えない聞こえないとして「所詮は他人事」としてしか自己の置かれた状況すら見えないだろう。
「原告たちの述べたいこと」は「この記事の中には、記者程度にしかない」ことに気づけ。原告は決して「損害賠償と謝罪」を求めているだけでもない。
原告・同胞の求めているのは沖縄人ー日本人としての「同一性と差異」であり、今の沖縄の現状に対する「理解」の方なのだ。
「新聞記事の書かれ方」は、同時に「読み手に教養を求めたもの」であることにも……、やはり、気づかないか……。
■痛み「70年消えたことない」=戦争被害、国に謝罪求める―沖縄戦訴訟・地裁
(時事通信社 - 06月17日 20:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3471795
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