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2015年05月29日16:20

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一本鳥居の裏にある真実

身近な所から太平洋戦争を知る・体験する仔グマ流「大東亜戦争ダークツーリズム長崎原爆編」

今年は戦後70年。
長崎原爆投下から70年です。

GWに長崎原爆爆心地を巡りましたので、ご紹介致します。


●坂本町民原子爆弾殉難之碑

山王神社 一本柱鳥居(二の鳥居)のある地名は坂本町なのですが、山王神社の前の道に原爆で犠牲になられた町民を悼む碑があります。
碑の脇に案内看板がありますので、その内容を文字に起こしてご紹介致します。


町内会長をしていたので翌日町内の様子を見て回った。
さんさんと照りつける真夏の太陽の下にあちこちの畑に一杯にあるいは死にあるいは生死の境をさ迷いながらうめき苦しむ多くの人々、達者な者は重傷者の看護に一生懸命立ち働いている。
意識のある者はすべて泣いて救いを求めた。
780余人の総人口のうち200人ぐらいは負傷はしていてもまだ生きていたし、達者な者も150人以上はいたのだが、それから10日ぐらい経った頃にはぱたぱたと死んで行き完全に生き残った者はわずか20人ぐらいに過ぎなかった。
町内175世帯中家族そろって完全に生き残ったのは山王神社の舩松氏の一家族だけである。
その日朝8時ごろの空襲で町内の防空壕奥深くに入り、そのまま壕内に遊んでいて赤ん坊に至るまで完全に助かったのである。

右の文は被爆当時、町内会長だった久保忠八さん(昭和48年没)の手記「原爆記」(長崎原爆被災誌に収録)の中から抜粋したものです。
久保さんは昭和20年8月9日、浦上に原爆が投下された当日、仕事で県外に出張していて難を逃れた数少ない体験者です。
二日後の11日、帰宅して目にしたのは一面の焼け野原。
ご自身も妻子5人を亡くしました。
その惨状を知る生き証人でもありました。
昭和27年、被爆倒壊した山王神社の鳥居の足柱をゆずり受け、町民手作りで碑を建立。
以後、、毎年、8月9日に慰霊祭を催して、犠牲となられた多くの地域住民に哀悼の誠を捧げ、世界の恒久平和を祈念しています。
なお、碑は平成18年9月の台風で折れた楠の大枝が覆いかぶさり倒れましたが、住民の募金で復元。
この地、山王からの祈りを今日に継承しています。

平成19年8月 坂本町山王自治会

被爆遺構ばかりが目につきますが、一本鳥居の蔭にはこのような事実が眠っているのです。

まだまだ被爆地巡りは続きます。


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