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2015年05月28日10:04

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5月28日の日記

今日の出来事:1556年−長良川の戦い、1561年−善明堤の戦い、1571年−石川城の戦い、1868−戊辰戦争:五井戦争、1869年−箱館戊辰戦争:折戸浜の戦い、松前城落城、1940年−第二次世界大戦:ベルギーの戦い、2007年−松岡利勝農林水産大臣が自殺

今日は、長良川の戦いです。斎藤道三は、「戦国三大梟雄」の一人です。名門土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三は、嫡男・義龍に国を譲って隠居しました。しかし、斎藤道三と義龍の不仲は深刻なものとなり、道三は義龍を廃嫡して自身が寵愛する義龍の弟を跡継ぎにしようとしました。その動きに気付いた義龍は、1555年12月24日に叔父・長井道利を使い「自分は重病であり、時を待つのみである。会って一言申し上げたいので入来されたい」と、稲葉山の屋敷に二人の弟(喜平次、孫四郎)を呼び寄せると、寵臣・日根野弘就に暗殺させました。二人の弟を謀殺した斉藤義龍は、道三に使者を送って事の顛末を自ら道三に伝えました。斎藤道三は仰天し、急ぎ兵を集めて城下の町を焼き払うと、火煙に紛れて城下から逃れました。長良川を超えると、山県の大桑城にまで逃れました。翌年の雪解けとともに両者は決戦を決意して、骨肉相争う事態となりました。斎藤道三の国盗りの経緯から旧土岐家家臣団の大半は義龍を支持しました。斎藤義龍軍17500名に対し、道三が動員できたのはわずか2700名と義龍が有利でした。道三は鶴山へと布陣しました。道三の娘婿である尾張の織田信長も、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良(岐阜県羽島市)の戸島、東蔵坊に陣所を構えました。義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、道三は北岸に移動しました。合戦は義龍軍の先手・竹腰道鎮の突撃で始まりました。竹腰勢は円陣を組んで長良川を押し渡り、斎藤道三の本陣へと迫ると旗本に切りかかりました。乱戦となりましたが、斎藤道三の指揮で竹腰勢は敗走し、道三の旗本により竹腰道鎮は討ち取られました。それを見た斉藤義龍は、自ら旗本を率いて川を越えて陣を固めました。この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門が一騎討ちを挑みました。道三軍から柴田角内がそれに応じて、両車の一騎打ちが始まりました。柴田角内が長屋甚右衛門の首を挙げた事により勝負が決すると、両軍とも全軍に突撃を命じました。それにより、乱戦となりました。斎藤道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めましたが、娘婿・織田信長の援軍なしでは兵力差は如何ともできず、ついに道三の前に斉藤義龍勢が押し寄せてきました。道三勢が崩れると長井忠左衛門道勝や林主水が、斎藤道三を生け捕りにして義龍の前へ引き据えようと突進しました。長井忠左衛門が道三に組み付いて、もみ合っていたところへ小牧源太が道三の脛を薙ぎ、首を切り落としました。これに長井忠左衛門は激怒しましたが、後の証拠として斉藤道三の鼻を削いで懐に収め、その場は退きました。これにより、合戦は終わりを迎えました。「長良川の戦い」での勝利で士気の上がった義龍軍は、首実検を終えると大良口の信長の陣所に兵を差し向けました。両軍は大良の河原で激突しました。信長側は、山口取手介と土方彦三郎が討死しました。森可成は義龍軍の千石又一と渡り合い、馬上で斬り合って膝を斬られて退きました。織田信長に道三討死の報が伝わると、全ての兵に川を渡って退かせて信長自身は舟一艘で川に残りました。義龍軍の騎馬が川端まで駆けて来ると、信長は鉄砲を撃ちました。それにより、騎馬武者は渡河を断念しました。こうして、追撃を払った信長は退却する事ができました。その前に、斎藤道三は織田信長に美濃を譲り渡すという遺言書を作成していました。後に、これを大義名分に掲げて信長は美濃に攻め入ります。この合戦で明智氏は道三に味方したため、義龍により居城の明智城を攻められました。辛うじて脱出した明智光秀の流浪生活が始まります。こうして「美濃の蝮」と言われた斎藤道三は散ったのです。

次に、善明堤の戦いです。善明堤の戦いは、三河の松平氏当主・松平元康(後の徳川家康)と三河の名族・吉良義昭との間で起った戦いです。今川義元が「桶狭間の戦い」で討死した後、独立した松平元康は三河の統一に動き出しました。松平元康の三河統一に敵対していたのが、吉良氏でした。吉良義昭は、自らの居城・西尾城を家人に任せて、東条城に入りました。この城の正面になったのが、深溝松平氏二代目・松平好景の居城・深溝城でした。松平好景は中島城へ入り、東条城を牽制しました。1561年に松平元康が自ら東条城を攻めましたが、吉良義昭はよく戦って東条城は落ちませんでした。1561年5月28日、吉良義昭は一計を案じ、富永忠元に数百騎を授けて酒井忠尚の守る上野城を攻めさせました。松平元康から指示を受けた松平好景は、松平康忠と嫡男・伊忠を出動させて深溝城へ戻りました。その隙を突いて、吉良義昭は中島城を攻めました。松平好景はすぐに留守の一族、家臣ら50余騎を率いて中島城へ向かいました。松平好景は敵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃しました。しかし、吉良方の富永忠元は軍を返すと追撃する松平好景をさらに追撃し、退路を断ちました。松平好景は伏兵に行く手を遮られ、吉良勢に囲まれました。敵中を切り抜けて中島城へ戻ろうとしましたが、松平好景をはじめ一族の者21人、家臣等34人の全員が討たれました。この場所は後に「鎧ヶ淵古戦場」とも呼ばれるようになりました。松平好景が討たれた場所は、善明堤の近くで胴塚があります。この戦いで松平元康は、松平好景の他に板倉好重など多くの一族や家臣を失いましたが、後に「藤波畷の戦い」で吉良氏の排除に成功し、さらに鵜殿氏などの今川方の勢力や一向一揆との争いを勝ち抜いて三河を統一する事になります。

その次に、石川城の戦いです。陸奥・大浦城主の大浦弥四郎(後の津軽為信)は、支城・堀越城から出撃しました。2キロメートルほど離れている石川城を突如攻略しました。南部宗家で、三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる津軽郡代で石川城主・石川高信を自害に追い込みました。この出陣の時、22歳の大浦弥四郎の妻・阿保良は兵卒達に自ら強飯を炊き出して手拭に包み、一人一人に与えました。兵たちは城主夫人からの心配りに感激して勇んで出撃しました。その兵の中には、大浦弥四郎が近隣の賭場や盛り場で雇って来た不成者83人が混ざっていました。この者たちには城の攻め手ではなく、石川城下の婦女子を襲わせて乱暴の限りを尽くさせました。城下での妻子の凄惨な有様に、石川城の城兵たちは合戦に集中できませんでした。石川高信は、南部信直の父でした。南部信直は父の仇を討つため、自ら兵を率いて津軽に向かいましたが、九戸政実が蜂起したとの報せを受けて南部に帰陣しました。この頃、南部晴政は石川高信の実子で、晴政の長女の婿となった石川信直と争っていました。大浦弥四郎は、家臣・板垣将兼に石川城を守らせました。その後、三戸南部家と石川家の内部抗争を良い事に、大浦弥四郎は周りの豪族を次々に攻め始めます。

その次の次に、戊辰戦争:五井戦争です。五井戦争は、「市川・船橋戦争」で敗走してきた幕府軍の一隊と新政府軍が戦った房総最後の戦闘です。「市川・船橋戦争」に敗れた旧幕府軍の一隊は上総方面に南下、これを追って新政府軍も検見川、蘇我へ追撃してきました。上総国・八幡(現・市原市)辺りで薩摩藩兵二人が幕府軍によって殺害されました。これを機に幕府軍と新政府軍は養老川で対峙して「五井戦争」が勃発しました。新政府軍は、養老川を渡河して姉ヶ崎へ進出しました。ここには「撤兵隊」の隊長・福田八郎右衛門直道を擁した第3大隊が布陣していましたが、新政府軍の猛攻により撤退しました。この戦いで旧幕府軍は敢闘しましたが、兵60名が戦死して敗れました。これにより、請西藩以外の房総諸藩は新政府に恭順の姿勢を示しました。この時、請西藩では「脱藩大名・林忠崇」と結んだ伊庭八郎・人見勝太郎が率いる「遊撃隊」が決起していました。

そのまた次に、箱館戊辰戦争:折戸浜の戦い、松前城落城です。新政府軍の太田黒惟信が率いる第3軍が上陸しました。松前の旧幕府軍500名は、改めて江差へ向けて出陣しましたが、新たに上陸した新政府軍1500名と折戸浜付近で遭遇しました。海からは新政府軍軍艦(「甲鉄」、「朝陽」、「丁卯」、「陽春」、「飛龍」)の砲撃が轟き、双方入り乱れての激戦となりました。戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城に逃げ込みましたが、艦砲射撃にさらされて福島まで後退を強いられました。松前奉行・人見勝太郎と歩兵頭並・伊庭八郎は、松前城を脱出しました。松前城は、海軍参謀・増田虎之助と陸軍参謀・黒田清隆が入りました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:ベルギーの戦いです。1940年5月10日、ナチス・ドイツはルクセンブルク、オランダ、ベルギーを抜けてフランスへ進撃する事を目的とした作戦「黄作戦」を発動しました。連合軍はそれが主力であると考え、ベルギーでドイツ軍を食い止めるために最良の師団をベルギーに向かわせました。しかし、ドイツ軍が作戦の第二段階を発動し、アルデンヌの森を突破してイギリス海峡へ向かって進撃をしました。5日後には海岸へ到達し、連合軍は包囲される事となりました。ドイツ軍は徐々に海岸方面へ進撃し、包囲網を縮め始めました。ベルギー軍は1940年5月28日、降伏しました。「ベルギーの戦い」では「第二次世界大戦」初の大規模戦車戦、「アニューの戦い」が行われました。この「アニューの戦い」は「北アフリカの戦い」と「東部戦線」が行われるまでは世界最大の戦車戦でした。さらに、降下部隊を用いた最初の「戦略的降下作戦」も行われました。ベルギー軍の戦死者は6093名、行方不明者500名以上、捕虜20万名でした。国王と政府はロンドンに亡命しました。

最後に、松岡利勝農林水産大臣が自殺です。松岡利勝は、安倍内閣で農林水産大臣に就任しました。しかしその後、松岡の事務所費問題、光熱水費問題、献金問題等数々の疑惑が浮上し、大きな批判を受ける事となりました。安倍晋三は自身の内閣の威信を貫くため、松岡利勝を庇い続けましたがマスコミは連日のように彼の不祥事を報道しました。衆議院議員宿舎(新赤坂宿舎)で首を吊っている所を警護官らに発見され、救急車で病院に運ばれましたが、既に心肺停止状態でした。搬送先の慶応義塾大学病院で死亡が確認されました。議員宿舎の部屋からは、安倍晋三や元総理大臣秘書官の飯島勲、さらに日本国民などにあてた計8通の遺書が残されておりました。現職大臣の自殺は阿南惟幾陸軍大臣以来で、現憲法下では初でした。松岡利勝が搬送された慶應義塾大学病院では、入院治療中だったZARDの坂井泉水が敷地内の階段から転落し後頭部を強打、27日午後に死亡していた事が明らかになっていたため、すでに多くの報道陣が同病院に詰め掛けておりました。

今日の誕生日:島津貴久、阿部定、筒美京平、宮内淳、内藤洋子、村上ショージ、水沼貴史、辛島美登里、中尊寺ゆつこ、カイリー・ミノーグ、西田幸治(笑い飯)、ミカ(元ココナッツ娘。、元ミニモニ。)、若槻千夏、黒木メイサ、山川紗弥(元美少女クラブ31)、林明日香、平嶋夏海(元AKB48)、鞘師里保(モーニング娘。)、佐々木莉佳子(アンジュルム)、ブライアンズタイム

今日の記念日:国際アムネスティ記念日、ゴルフ記念日、花火の日

今日の「今日訓」:本日は、1733年、隅田川で水神祭りの川開きが行われ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられた事を記念して「花火の日」、1961年、政治的権力による人権侵害を守るための国際民間機関「アムネスティ・インターナショナル」が発足した事を記念して「国際アムネスティ記念日」、1927年、第1回全日本オープンゴルフ選手権大会が横浜の程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された事を記念して「ゴルフ記念日」となりました。
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