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2015年05月25日00:39

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5月25日の日記

今日の出来事:723年−養老七年格(後の三世一身法)が発布される、1477年−江古田・沼袋原の戦い、1592年−文禄の役:多大鎮の戦い、1868年−秋田戊辰戦争:天童の戦い、1945年−第二次世界大戦:山の手大空襲(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)、1955年−岩波書店から「広辞苑」初版が刊行、1970年−黒い霧事件でコミッショナー委員会が西鉄の3選手の球界永久追放を決定、1977年−スター・ウォーズシリーズ第1作がアメリカで公開

今日は、養老七年格(後の三世一身法)が発布されるです。「三世一身法」は、奈良時代前期の723年5月25日に発布された格(律令の修正法令)で、墾田の奨励のため開墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令です。当時は「養老七年格」と呼ばれました。灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許すというものです。この「三世一身法」の施行により、墾田の実施が増加しました。しかし、その効果は一時的で期限が到来すれば収公されてしまう事で、農民は怠けて墾田を行わなくなりました。このため、20年後の743年に「墾田永年私財法」が施行され、墾田の永年私財化を認める事となりました。

次に、江古田・沼袋原の戦いです。江古田・沼袋原の戦いは、1477年5月25日に武蔵国の江古田原・沼袋(現・東京都中野区江古田・沼袋)で、太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦です。「長尾景春の乱」での戦いの一つです。1476年、関東管領・山内上杉顕定の家臣・長尾景春が古河公方・足利成氏と結んで謀反を起こし、上杉顕定および扇谷上杉定正が守る五十子の陣(現・埼玉県本庄市五十子)を急襲しました。上杉顕定、上杉定正は大敗を喫して敗走しました。長尾景仲、景信の二代で関東管領家の家宰職を務めた白井長尾家は、関東で大きな勢力を有していました。長尾景春の挙兵に、小磯城の越後五郎四郎、小沢城の金子掃部助、溝呂木城の溝呂木正重、小机城の矢野兵庫助など多くの国人、地侍がこれに呼応しました。南武蔵の名族・豊島氏も呼応して上杉氏に反旗を翻しました。豊島氏は、坂東八平氏の秩父氏の一族で源氏の家人となり、「前九年の役」、「保元の乱」に参陣しました。源頼朝が挙兵するとこれに従い、鎌倉幕府の有力御家人となりました。豊島氏は武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの庶流を配して、室町時代になっても大きな力を有していました。その所領は、豊嶋、足立、新座、多東の四郡2300余町歩、5万7500石に上りました。この時、豊島氏は石神井城(東京都練馬区)を居城とし、当主は勘解由左衛門尉泰経でした。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏との1453年以来の長期に渡る戦乱「享徳の乱」では、豊島氏は上杉氏に味方していました。この乱で大きく勢力を伸ばした扇谷上杉氏家宰・太田道真、道灌父子は、岩槻城、河越城、江戸城を築きました。豊島氏の領域近辺に江戸城を築いた事が、豊島氏が長尾景春に呼応した原因となりました。豊島泰経は石神井城、その弟・泰明は練馬城で挙兵し、太田道灌の居城・江戸城と河越城を繋ぐ道「江戸河越通路」を遮断しました。1477年4月27日、太田道灌は石神井城の攻略を画策しましたが、相模勢が多摩川の増水のために渡河する事が出来ずに断念し、直ちに矛先を転じて相模国の長尾景春の掃討に向かいました。太田道灌は相模勢と合流して、5月1日に溝呂木城を攻めました。溝呂木正重は城に火を放って逃亡し、小磯城の越後五郎四郎は降伏しました。次に、小沢城の攻略にかかりましたが、守りが堅く容易に落ちませんでした。そのため、太田道灌は河越城に甥・資忠、上田上野介を、江戸城には上杉朝昌(上杉定正の弟)、三浦高救(上杉定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守りを固めさせました。長尾景春方も後詰の吉里宮内、実相寺らが小山田要害(東京都町田市)を攻め落として牽制しました。その後、小机城の矢野兵庫助が河越城を衝こうと出撃しました。5月22日に太田資忠、上田上野介と勝原(埼玉県坂戸市)で合戦となり、矢野兵庫助は重傷を負って撤退しました。5月25日、太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むと周辺に放火しました。練馬城主・豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経に連絡を取って全軍で出撃しました。太田道灌も引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原で合戦となりました。この時、太田道灌は氷川神社に本陣を置きました。この戦いで、豊島方は豊島泰明の他、板橋氏、赤塚氏以下150名が討死、生き残った豊島泰経と他の兵は石神井城へと敗走しました。この戦いは、太田道灌が江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出して討ち取りました。その後、豊島泰経は石神井城に逃げ込みました。翌日、太田道灌は愛宕山に陣を敷いて対峙しました。5月30日、豊島泰経は城を出て太田道灌と会見し、降参を申し出ました。城の破却が当時の降伏の作法でしたが、豊島泰経がこれを実行しないため、偽りの降参とみなした太田道灌は6月2日に攻撃を再開し、石神井城の外城を攻め落としました。これにより、抵抗を諦めた豊島泰経は、夜闇に紛れて逃亡しました。この後、太田道灌は上杉顕定、上杉定正と合流して北武蔵、上野を転戦して長尾景春を封じ込める事に成功し、古河公方・足利政氏が和議を打診してきました。この和議を妨害するため、豊島泰経が平塚城に拠って再挙しました。しかし、太田道灌が攻撃に向かうと豊島泰経は戦わずして足立方面に逃亡しました。豊島泰経のその後の消息は不明となり、これにより名族・豊島氏は滅亡しました。太田道灌は各地を転戦して長尾景春方を攻め潰し、1480年に長尾景春の最後の拠点・日野城を落として、「長尾景春の乱」を平定します。1482年に古河公方との和議が成立し、30年近くに及んだ関東の争乱は終結しました。ほとんど独力で乱を平定した太田道灌の声望は、絶大なものとなりました。しかし、これが主君・上杉顕定、上杉定正の猜疑を生み、1486年、太田道灌は糟屋舘で上杉定正によって謀殺される事となります。

その次に、文禄の役:多大鎮の戦いです。宗義智が釜山城を攻略した頃、多大鎮の砦に向かった日本軍一番隊の大将・小西行長は、朝鮮軍の指揮官・尹興信と弟・尹興梯と戦っていました。小西行長は港に上陸して突撃し、火縄銃の援護を受けながら堀の水を排水する戦術を使いました。火縄銃によって朝鮮側の守備兵は無力化されました。朝鮮軍は日本軍が堀を排水するのを防げなかったため、防壁まで直接近付けるようになりました。朝鮮側による矢の連射や投石などに対抗しながら、日本軍は攻城用の塔や梯子を用いて、火縄銃の援護の中で城壁に登りました。尹興信は第一防衛線が破られるのを待って偽りの退却を行った後、奇襲攻撃で反撃をしました。激しい乱戦の後、防壁が破られ日本軍が砦を占拠しました。「釜山鎮の戦い」と同様、多大鎮は掠奪され多くの市民が殺されました。小西行長は、すぐさま部隊を再編成し攻撃目標である漢城への進撃を開始しました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:天童の戦いです。庄内藩征討を命じられた山形藩、久保田藩らが庄内藩と交戦しました。1868年2月、天童藩主・織田信学は新政府より上洛の命を受けました。しかし、織田信学は病に倒れていたため、嫡男・信敏が代理として参内しました。この時、新政府から奥羽鎮撫使先導に任じられ、織田氏重臣・吉田大八が新政府軍に奥州の道案内役を務める事となりました。吉田大八は、奥羽鎮撫副総督・沢為量を先導して庄内藩と戦いました。山形藩・水野三郎右衛門が率いる山形隊二番手が最上川を寒河江側から渡り、長柄に布陣していた庄内軍2番大隊の500名と開戦しました。しかし、庄内軍の反撃で隊長・大久保伝平、司令士・赤星守人が戦死しました。山形軍は山形城下に潰走しました。庄内軍はその後、山形城を攻撃せずに天童に向かいました。「清川口の戦い」で潰走した天童軍を追撃してきた庄内軍と合流し、天童城下の総攻撃を始めました。庄内軍二番大隊隊長・酒井吉之丞は最上川を渡り、天童と市街の南半分の230戸を焼討ちにしました。天童藩主・織田信敏は城外に逃れました。この日を持って庄内藩と奥羽鎮撫総督政府軍との正式な開戦となりました。庄内藩主・酒井忠篤の官位は剥奪されて、庄内藩は正式に討伐の対象となりました。こうして奥羽鎮撫使は「庄内征伐」を発令する事になりました。

最後に、第二次世界大戦:山の手大空襲(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)です。今まで空襲を受けていなかった山の手に、470機ものB29が来襲しました。皇居も被災し、宮殿が焼失しました。死者3651人、被害家屋は約22万戸と「東京大空襲」に次ぐ被害となりました。 東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死しました。この時逃れ出ようとした数名の米兵捕虜が、日本人看守により斬殺されるという事件が起きました。これが「東京陸軍刑務所飛行士焼死事件」です。後に、横浜軍事法廷における「BC級戦犯裁判」の結果、東京陸軍刑務所長の田代敏雄陸軍大尉が死刑(再審で懲役40年)、看守長の越川正男陸軍少尉が死刑(再審で懲役30年)、米兵を斬殺したとされる看守の大久保又一法曹長、神本啓二法軍曹、神戸初明法軍曹が死刑(ともに再審で懲役10年)の判決を受けました。

今日の誕生日:崇光天皇(北朝第3代天皇)、ポル・ポト、荒木経惟、小倉智昭、葛城ユキ、山田スミ子、ケント・ギルバート、江川卓、カイヤ川崎、大山正篤(元ZIGGY)、陣内大蔵、二ノ宮知子、石田ひかり、うすた京介、だいたひかる、籐子(tohko)、空知英秋、上野樹里、西野七瀬(乃木坂46)、ダンスパートナー

今日の記念日:アフリカデー、食堂車の日、広辞苑記念日、主婦休みの日、納本制度の日、別所線の日、みやざきマンゴーの日、ターミネーターの日、愛車の日

今日の「今日訓」:本日は、年3回(1月25日、5月25日、9月25日)ある「主婦休みの日」です。目的は、「1.家事や育児に頑張る主婦がリフレッシュできる日」、「2.家族が元気になってニッポンも元気になる日」、「3.夫や子どもが家事にチャレンジする日&パパと子どもが一緒に行動する日」です。1899年5月25日に山陽鉄道(現・西日本旅客鉄道の山陽本線)に食堂付き一等車がお目見えした事を記念して「食堂車の日」、1948年に国会図書館で納本の受付が始まった事で「納本制度の日」、1955年、岩波書店の国語辞典「広辞苑」の初版が発行された事で「広辞苑記念日」、1963年の「アフリカ統一機構」創設を記念して「アフリカデー」、上田電鉄別所線のシンボルである丸窓電車「モハ5250」から「別所線の日」、「マンゴー(05)ニッコリ(25)」の語呂合わせで「みやざきマンゴーの日」、1985年5月25日に「ターミネーター」シリーズの第1作が公開された事で「ターミネーターの日」、1915年5月25日に日本初の外国車ディーラー「ヤナセ」が創業された事で「愛車の日」となりました。
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