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2015年04月07日07:42

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違うんだなあ

■「戦艦大和」沈没70年 きょう海自機が“鎮魂飛行”
(dot. - 04月07日 07:11)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=3358622

 旧日本海軍の戦艦大和が沈んで、きょう4月7日で70年になる。いつの時代も軍事とは
科学技術の粋だ。
当時の日本が誇る最高水準の知恵と技の結晶――。
大和とはそんな艦だった。

 基準排水量6万4千トン、全長263.0m、幅38.9m、吃水10.4mと伝えられる巨艦大和。
これは“QE2”で知られる20世紀後半を代表する英国の豪華客船「クイーン・エリザベス2」と
ほぼ同じだ。
現在、海上自衛隊が保有する護衛艦のなかでももっとも大きな艦と話題となった
空母型護衛艦「いずも」ですら約2万トンだ。
大和がいかに大きな艦だったかがここからもうかがえる。

 太平洋戦争開戦直後の1941年12月16日に就役後、連合艦隊旗艦となった大和だが、
その力を発揮する機会にはあまり恵まれなかった。
世界でも最高水準に達する強さを持つ大和を「切り札」として温存したい。
当時の海軍ではそう考えていたという。

 浮かんでいるだけで意味がある。いわば“政治的な兵器”、それが大和という艦だった。

 だが、いつも戦場に出ることなく当時の連合艦隊泊地だった山口県柱島や、グアム島や
パプアニューギニア近く、今のミクロネシア連邦・チューク諸島に置かれていた
最前線基地・トラック島に停泊していた大和は、いつしか最前線の将兵たちから
「大和ホテル」という軍艦としてはありがたくないあだ名を頂戴していた。

 連合艦隊司令長官以下、若い水兵に至るまで大和乗員たちは、最新の艦ゆえの特権で
冷暖房完備、もう本土ではとてもお目にかかれない恵まれた食事に日々ありつけたためだ。

 もっとももうこの頃には大和や姉妹艦である「武蔵」といった大型艦を自由に動かすには
重油の貯蔵具合を気にしなければならないほど、戦局が逼迫していたという事情も大きい。

 「虎の子」という作戦上の意図、その巨体ゆえ油を食うという経済的な理由、この2つから
大和は太平洋戦争時、ほとんど前線に出ることはなかった。

 冒頭部でも触れたが、空母を主力とする太平洋戦争開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃時、
まだ就役すらしてなかった。
その空母を4隻失ったミッドウェー海戦では、その500kmも後方を航行しており、米軍と
戦っていない。
1944年にはレイテ沖海戦に主力艦として参加したが、この作戦の指揮を執る第2艦隊
司令長官・栗田健男中将による有名な「反転」命令により、激戦地に赴くことなく引き返している。

 だが、そんな大和に転機が訪れる。すでに敗戦色が日々濃くなる1945年4月、連合艦隊
司令部では「一億総特攻の魁」として太平洋戦争における海軍の象徴的軍艦、大和を
当てることにした。
燃料は片道分、目的地は沖縄。
もし沖縄まで辿り着いたならば浅瀬に突っ込み陸上砲台として米軍を迎え撃つ――。

 今の時代からみれば無謀ともいえる特攻艦隊の旗艦として大和が沖縄に向けて
1945(昭和20)年4月6日出撃した。

 だが沖縄に向かう途中の翌7日、鹿児島県坊ノ岬沖で待ち受けていた1000機以上の
米軍航空隊の攻撃により14時23分に沈没してしまう。
戦闘記録によると魚雷9発を受けた、とある。

 艦からの攻撃ではなく飛行機からの攻撃で沈んだこと、それはもう戦闘の主力は
戦艦ではなく航空機の時代であることを示すものだった。

 今、大和が沈んだとされる鹿児島県犬田布岬には「戦艦大和慰霊塔」が置かれている。
ここで今日、鹿児島県伊仙町の主管による慰霊祭が行われる。
沈没した14時23分の黙祷の後には、大和が属した旧海軍の伝統を継承する海上自衛隊の
P-3C 対潜哨戒機が慰霊のために飛行する予定だ。
そして9月には、神道政治連盟大阪本部が大和が沈んだ洋上で慰霊祭が行われる計画もある。

 戦後70年の節目を迎えた日本の今を、鹿児島県沖で沈んだ大和乗員たちの目には
どう映っているのか。
決して返ってくることのないこの問いに向き合うことが今私たちに求められているのでは
ないだろうか。

(フリーランス・ライター 秋山謙一郎)
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