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2015年03月30日00:53

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物理力を禁欲的に内包しない思想は憂鬱を分泌する


Twitterに今しがた、思いつくままに書いたことを、少し言い回しを改変して転載

●定例研究会から帰宅し、眠りにつき、暦からすれば、昨日の昼頃に目覚める。前回に続き、1975年に『現代思想』誌に書いたニーチェとワーグナーについての拙論を読む。問題の深さから前回は少し消化不良だったことを踏まえ、少し復習を加え、ニーチェのワーグナー批判の意味に迫る。
●会には東京から出版社の方が来られ、拙著の出版企画についての話をする。問題がなければ、年内に、現代の思想や運動関連のものが一点、そして数年以内に音楽を中心とした芸術関連のものが一点、そして別の版元から来年にユンガー関連のものが一点という具合になるかもしれない。
●アマゾンで古書扱いで価格が3万円近くになっている絶版の拙著『歴史からの黙示』も再刊したいという版元の声を聞く。こちらは、1973年初頭の刊行であり、1968年闘争期の運動現場から形成されたバクーニン主義的アナキズムの展開や1968年闘争の「戦後」としての1970年代が見られよう。
●『歴史からの黙示』は私が22歳の時のものであり、これにより「戦後最年少のイデオローグ」と当時の書評でも言われたが、それ以降、1980年代半ばに著述その他から隠遁するまでに雑誌に書いた原稿だけでも何点かの単行本になるだろう。私がいう物理力を内包した思想の内包の過程があると思う。
●思想の孕む現実は、政治のそれとは異なる。政治は交渉と現実だが、思想はそうではないからだ。では、政治とは異なる思想の孕む現実とは何か。それは政治に対するものとしていえば軍事だろう。思想が内包する物理力とは端的に軍事・武闘にあり、思想とはそれの禁欲的な理論的展開としてある。
●現代の思想がどれもこれも本質的につまらないのは、物理力の禁欲を含まず、単なる現実の説明や思いつき程度の現実手直しの処方箋でしかないからだ。だからどれもこれも結論は似たようなものになっている。思想がすべきことは現実や諸問題の説明や解釈ではなく、思想の及ばない現実を示すことにある。
●つまり、どれだけ思念を凝らそうとも、思念の他者として現存する現実だ。近代ではそれに対する理論的対応が求められたが、そのような理論の「神の死」以降の現代では、理論的対応の不可能な現実の具体的な抽出が求められる。それは「何をなすべきか」を示し、後は理論の他者への実践ということになる。
●その意味では理論の限界を示すことが理論の役割となる。近代最大の観念論の体系だったヘーゲルの思想においても、到達した「理性の狡知」において垣間見られた現実、そこにこそヘーゲルの思念の他者があり、ヘーゲルはそこで終わるが、思想の現代は、そこから始まる。
●ある意味で思想の影響とはエモーショナルなものだ。というのも思想のもたらす影響は、その思想が展開する理論に限られず、理論の動機や問題意識にあったりするからだ。だから理論的には同意出来なくとも多大な影響を受ける思想が存在したりする。
●アカデミズム系の学者とジャーナリズム系の批評家が現代の思想を領導しているが、そのため思想の現状は、保守、リベラル、社民でしかない。それらの思想は、よくいえば現実的で具体的だが、悪くいえば狭い閉鎖的な現実でしかない。だから本人たちも気づかないかもしれないが、その底には憂鬱の膿が漂っていよう。
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