〜다 보면, 〜다 보니 から 〜아(어)서, 〜니까 までの話
昨日、久しぶりに友だちと話す機会があって、その時に出てきた話です。
最近「〜다 보면」と 「〜다 보니」の違いに気がついて・・・と話したら、逆に聞き返された。それですぐに手元にある文法書の説明をとりあえず読み上げた。
「〜다 보면」は、「先行文はある時点からその時までの継続してきた過程を表し、後続文は先行文を通じて感じられる結果的な感情や事実、経験などを表現する」。
また、「〜다 보니」は、「先行文はある時点からその時まで過ごしてきた過程を表し、そのような過程に基づき後続文の結果が現れたことを意味する」。
文法書の説明だから、なんだか難しく書いてあるが、たとえば
살다 보면 별별 일이 다 생길 겁니다
暮らしてみると、いろいろなことが起きるでしょう
열심히 살다 보니 어느새 얼굴에 주름살이 생겼군요
一生懸命暮らしていたら、いつの間にか顔にしわができましたね
というように、この二つの文法は似ているようで、「〜다 보면」は後続文が一般的な:結果というか客観的な話が来ることが多く、また現在形の形になっているが、「〜다 보니」の方は個人的なというか主観的な話が来ることが多いようで、しかも過去形の言い方が多いようだ。
と話すと、友だちはもともと「〜면」は仮定だし、「〜니까」は理由というか原因だからではないかと返事してきた。
それを聞いて、なるほど、考えてみれば、ほかにも
알고 보면と 알고 보니 とか
해보면と 해보니 など
これらも同じような意味の違いがあるんだな〜という話になって、なんだかとても基礎的な文法なのにもかかわらず、改めて自分が深く理解していなかったことに気がついた。
さらに友だちが言うには、韓国語を勉強している日本人がよく言いそうな韓国語作文の中で、
늦잠 잤으니까 지각했다 (寝坊したから、遅刻した)
みたいなのをよくみかけるけど、これはおかしくて、もともと「니까」は自分の状況の理由としては用いることができない文法だというのだ。つまり、さきほどの文章は、
늦잠 자서 지각했다
のように「아(어)서」の方になるというのだ。また「아(어)서」は過去形では言わない。
確かに言われてみれば、その通りのような気がする。
でも考えるときにどうしても日本語の「〜だから、〜だった」という感じで作文してしまうので、つい「니까 」の方で言ってしまいがちなのだろう。
なので、
만났으니까 반가워요
머리가 아프니까 집에 있었다
みたいな言い方は変なのだというのだ。
「아(어)서」とか「니까 」なんて、初級の初めの段階で習う文法なのに、今になって発見することがあるなんて、改めて自分の勉強不足を痛感しました。
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